乾隆帝。 中国史(第25回 名君の時代3〜乾隆帝〜)

【清の全盛期に君臨した男】乾隆帝とは、どんな皇帝だったのか?

乾隆帝

生涯 [ ] と側妃の熹貴妃ニオフル氏(、出身)との間の子(第4子)として生まれる。 祖父に幼い頃からその賢明さを愛され、生まれついての皇帝になる人物と目されており、を経て即位した。 質素であった祖父、父とは違い派手好みの性格であった。 父の死去後、25歳で即位すると父雍正帝の時代に助命された ()をとともに逮捕しに処して、その一族も処刑するなどその存在感を示した。 乾隆帝の功績としてまず挙げられるのが「」と呼ばれる10回の外征である。 (、 - 、)、の( - 、 - 、 ())、( - 、 - 、、戦闘は、で行なわれた)に2回ずつ、()および( - ())、( (、))、( - 、)、(、)に1回ずつ計10回の遠征を十全武功と言って誇り、自身を 十全老人と呼んだ。 これにより清の版図は最大規模にまで広がり、また、 、 、、まで朝貢するようになった。 十全武功も乾隆帝は「全て勝った」と言っているが、西域では酷い苦戦もあり、越南、緬甸など実質的には負けの遠征もあった。 また、の反乱( ()、 ())やなどが起こった。 さらにこの時期に中国におけるの活動を禁止し、完全な体制に入ったことで、のちの欧米の侵攻に対する清政府の抵抗力を奪ってしまった。 、の使節としてが入朝したのは乾隆帝の代であるが、は免除したものの貿易摩擦に関するイギリスの要求は退けている。 国内政治においては、雍正帝の時代に置かれたが恒常的な政務機関となっていった。 ・期の繁栄にも支えられて国庫が充実していたため、民衆にはたびたび減税を行った。 また、古今の優れた書物を書き写し保存するという文化的大事業である『』の編纂や、上記の10回の外征も、こうした豊かな経済力を前提としていた。 この時期には文化が大いに振興し、宮廷はきらびやかに飾られ、乾隆帝自身も数多くのを作った。 乾隆帝はまた中国の伝統的な文物をこよなく愛し、現在もに残る多くのコレクション を収集し、たびたび江南へ行幸した(六巡南下)。 これらの軍事的・文化的な成功により三世の春の最後である乾隆帝の治世は清の絶頂期と称えられる。 自らも「史上自分ほど幸福な天子はいない」と自慢していたという。 宮廷画家たちを重宝したことでも大きく有名である。 帝,帝の頃までは宮廷画家たちのための確たる組織というものはなく、養心殿造辧処という、諸々の職人たちをまとめる組織の中に「画画処 画を画く処 」という部門があるにとどまっていたが、乾隆帝は即位とともに「画院処」を設けた。 この「画院処」が「画院 がいん 」の大本であったと言う指摘もされている。 さらにそれとは別にヨーロッパの画家などが仕事をする場としての「如意館」があった。 画院の歴史においてもこのように同時代に2つのが設けられているのは極めて特異である とされる。 さらにに篤く帰依していた。 チベット語のをモンゴル語と満州語に翻訳し、北京や熱河に多くのチベット寺を建て、チベット仏教僧を供養するなどといったことを行っていた。 チベット仏教に関連する重要な事績は大きく3つある。 1つ目は、皇城に接する北海の北に国家鎮護の仏であるを祀る寺を建てたこと。 2つ目は、北京初のチベット僧院ガンデン・チンチャクリンを設立したこと。 3つ目はチャンキャ3世が乾隆帝にチャクラ・サンヴァラ尊のを授けたことである。 灌頂 かんじょう とはサンスクリット語でアビシェーカ、チベット語ではワンと言い、「仏の力を授かること」を意味している。 その一方で退廃の芽生えもあった。 乾隆帝は奸臣の(和 珅)を重用し続けた。 ヘシェンはと他の臣たち全てに憎まれていた。 と呼ばれる思想弾圧で多くの人々を処罰し、も厳しく実施した。 1738年 乾隆三年 、10月に正室との皇二子である永璉 えいれん を9歳で亡くした。 その2月後の12月、という画家に「歳朝図」の作成を命じ、皇帝と皇子たちの団欒のさまを活写させたという。 その出来上がった「歳朝図」には永璉の姿も描かれていたという。 この際皇二子を亡くしているが、元々乾隆帝には17人の皇子がいた。 下の「后妃」の欄を参照 しかし乾隆帝が85歳にて退位しようとした時には50歳の皇八子永璇 えいせん ,皇十一子永瑆 えいせい ,皇十五子永琰 えいたん ,皇十七子永璘 えいりん の4人しかのこっていなかったという。 、治世60年に達した乾隆帝は祖父の治世61年を超えてはならないという名目で十五男の永 琰()に譲位しとなったが、その実権は手放さず、清寧宮で院政を敷く一方でヘシェンに政治権限を委ねた。 いかに嘉慶帝といえども、乾隆上皇が生きている間はヘシェンの跳梁をどうにも出来ず、宮廷内外の綱紀は弛緩した。 晩年の乾隆上皇は認知症を疑われる行動をし、王朝に老害を撒き散らした。 に崩御。 陵墓は内の裕陵。 ヘシェンは乾隆上皇の死後ただちに死を賜っているが、没収された私財は国家歳入の十数年分 に達したという(当時の世界のGDPの3割が清である)。 期のに国民党の軍閥によって東陵が略奪される事件が起き()、乾隆帝の裕陵及びの定東陵は、墓室を暴かれ徹底的な略奪を受けた。 これは最後の皇帝だったにとってはに紫禁城を退去させられた時以上に衝撃的な出来事であり、彼の対日接近、のちの建国および彼のへの再即位への布石にもなった。 文化事業 [ ] この節のが望まれています。 主に: 出版事業など ( 2020年1月) 后妃 [ ]• 長女(夭逝)、三女:固倫和敬公主、二男:端慧皇太子永璉(夭逝)、七男:哲親王永琮(夭逝)• ()(ナラ氏、那拉氏):江南巡幸における杭州の視察の際、当時の満洲族としては禁忌であった断髪をしたことで皇帝及び皇太后への呪詛とみなされ(断髪をした理由は諸説あり)、皇后を事実上廃された。 没後、葬儀は皇貴妃の格式で執り行われ、皇后であったが乾隆帝の裕陵には附葬されず、純恵皇貴妃の園寝に埋葬され、諡号もつけられていない。 十二男:貝勒永璂、五女(夭逝)、十三男:永璟(夭逝)• 七女:固倫和静公主、十四男:永璐(夭逝)、九女:和碩和恪公主、十五男:永琰()、十六男(夭逝)、十七男:慶親王永璘• (ガオギャ氏、高佳氏)• (蘇氏)• 三男:循郡王永璋、六男:質親王永瑢、四女:和碩和嘉公主• (陸氏)• (フチャ氏、富察氏)• 長男:定親王永璜、二女(夭逝)• (ギンギャ氏、金佳氏)• 四男:履親王永珹、八男:儀親王永璇、九男(夭逝)、十一男:成親王永瑆• (陳氏)• (バリン氏、巴林氏)• (ダイギャ氏、戴佳氏)• 六女(夭逝)、八女(夭逝)• (ケリェテ氏、珂里葉特氏)• 五男:栄親王永琪• (イルゲンギョロ氏、伊爾根覚羅氏)• 晋妃(フチャ氏、富察氏)• ()(ホージャ氏、和卓氏)ウイグル族。 ()のモデル。 舒妃(イェヘナラ氏、)• 十男(夭逝)• 惇妃(汪氏)• 十女:固倫和孝公主 ほか• 和碩和婉公主 - 父は和親王弘昼 出典・脚注 [ ]• 増井経夫『大清帝国』講談社〈講談社学術文庫〉、2002年、120頁。 乾隆30年代にビルマに内乱が起こり、乾隆帝はこれに介入して乾隆34年(1769年)にビルマを朝貢国とした。 増井経夫『大清帝国』講談社〈講談社学術文庫〉、2002年、120頁。 乾隆53年(1788年)ベトナムが王朝交替で乱れると、これに介入して同じく朝貢国とした。 『乾隆帝のコレクション』15、日本放送出版協会〈故宮博物院〉、1999年。 で紹介放映され、書籍化。 中野美代子『乾隆帝-その政治の図像学』文春新書、2007年4月、第1刷、90-91頁。 石濱裕美子『清朝とチベット仏教-菩薩王となった乾隆帝』早稲田大学学術叢書、2011年9月30日、第1刷、150-168頁。 中野美代子『乾隆帝-その政治の図像学』文春新書、2007年4月、第1刷、41頁。 寺田隆信『『紫禁城史話 中国皇帝政治の桧舞台』』中公新書、1999年3月、初版。 日本語文献 [ ]• 『清朝とチベット仏教 菩薩王となった乾隆帝』 出版部、2011年、。 『乾隆帝 その政治の図像学』 〈〉、2007年、。 『中国文明の歴史9 清帝国の繁栄』 〈〉、2000年、。 『東洋の歴史9 清帝国の繁栄』(人物往来社、1967年)を文庫化。 『宮崎市定全集13 明 清』(、1993年)にも収録。 『大清帝国』 、2002年、• 『』(、1974年)を文庫化。 石橋崇雄 『大清帝国への道』 講談社学術文庫、2011年。 『大清帝国』(講談社選書メチエ、2000年)を文庫化。 『興亡の世界史17 大清帝国と中華の混迷』講談社、2007年/講談社学術文庫、2018年• 『乾隆皇帝』 、1961年• 『乾隆帝伝』 、2016年。 初刊版は生活社(1942年)。 新版は、新居洋子校注・解題『円明園の研究』を収録 以下は史料文献• 『中国訪問使節日記』 訳注、東洋文庫。 訳注 『士中国書簡集3 乾隆編』• 矢沢利彦 『西洋人の見た中国皇帝』 東方書店、1992年。 史書の編訳解説• 『』 長谷川強校注、(全3巻)、1991年 江戸時代の随筆。 乾隆帝についての逸話を収録。 登場作品 [ ] 小説• () - 著者の故郷で伝わる民間伝承をもとにして、「乾隆帝漢人説」を設定された小説。 映画化• (1981年、香港、演:)• 第1部 紅花党の反乱/第2部 シルクロードの王女・香妃(1987年、香港・中国、演:) テレビドラマ化• (2002年、中国、演:)• (2008年、中国、演:)• () 映画• ()(2012年、中国・香港、演:) テレビドラマ• (1998年、中国、演:)• 乾隆與香妃(2004年、中国、演:)• (2009年、中国、演:)• (2011年、中国、演:)• ()(2013年、中国、演:)• (2017年、中国、演:)• (2018年、中国、演:) 漫画• モンスターバンケット() 関連項目 [ ]• - にある夏期の別荘宮殿• - にある乾隆帝が建てさせたチベット様式の寺廟で.

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[中国ドラマ]《如懿传》(にょいでん〜紫禁城に散る宿命の王妃〜)のあらすじと見た感想(ネタバレあり)。乾隆帝の後宮のお話。同時代を描いた《延禧功略》『璎珞<エイラク>~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃』とどっちが面白いか?

乾隆帝

生涯 [ ] と側妃の熹貴妃ニオフル氏(、出身)との間の子(第4子)として生まれる。 祖父に幼い頃からその賢明さを愛され、生まれついての皇帝になる人物と目されており、を経て即位した。 質素であった祖父、父とは違い派手好みの性格であった。 父の死去後、25歳で即位すると父雍正帝の時代に助命された ()をとともに逮捕しに処して、その一族も処刑するなどその存在感を示した。 乾隆帝の功績としてまず挙げられるのが「」と呼ばれる10回の外征である。 (、 - 、)、の( - 、 - 、 ())、( - 、 - 、、戦闘は、で行なわれた)に2回ずつ、()および( - ())、( (、))、( - 、)、(、)に1回ずつ計10回の遠征を十全武功と言って誇り、自身を 十全老人と呼んだ。 これにより清の版図は最大規模にまで広がり、また、 、 、、まで朝貢するようになった。 十全武功も乾隆帝は「全て勝った」と言っているが、西域では酷い苦戦もあり、越南、緬甸など実質的には負けの遠征もあった。 また、の反乱( ()、 ())やなどが起こった。 さらにこの時期に中国におけるの活動を禁止し、完全な体制に入ったことで、のちの欧米の侵攻に対する清政府の抵抗力を奪ってしまった。 、の使節としてが入朝したのは乾隆帝の代であるが、は免除したものの貿易摩擦に関するイギリスの要求は退けている。 国内政治においては、雍正帝の時代に置かれたが恒常的な政務機関となっていった。 ・期の繁栄にも支えられて国庫が充実していたため、民衆にはたびたび減税を行った。 また、古今の優れた書物を書き写し保存するという文化的大事業である『』の編纂や、上記の10回の外征も、こうした豊かな経済力を前提としていた。 この時期には文化が大いに振興し、宮廷はきらびやかに飾られ、乾隆帝自身も数多くのを作った。 乾隆帝はまた中国の伝統的な文物をこよなく愛し、現在もに残る多くのコレクション を収集し、たびたび江南へ行幸した(六巡南下)。 これらの軍事的・文化的な成功により三世の春の最後である乾隆帝の治世は清の絶頂期と称えられる。 自らも「史上自分ほど幸福な天子はいない」と自慢していたという。 宮廷画家たちを重宝したことでも大きく有名である。 帝,帝の頃までは宮廷画家たちのための確たる組織というものはなく、養心殿造辧処という、諸々の職人たちをまとめる組織の中に「画画処 画を画く処 」という部門があるにとどまっていたが、乾隆帝は即位とともに「画院処」を設けた。 この「画院処」が「画院 がいん 」の大本であったと言う指摘もされている。 さらにそれとは別にヨーロッパの画家などが仕事をする場としての「如意館」があった。 画院の歴史においてもこのように同時代に2つのが設けられているのは極めて特異である とされる。 さらにに篤く帰依していた。 チベット語のをモンゴル語と満州語に翻訳し、北京や熱河に多くのチベット寺を建て、チベット仏教僧を供養するなどといったことを行っていた。 チベット仏教に関連する重要な事績は大きく3つある。 1つ目は、皇城に接する北海の北に国家鎮護の仏であるを祀る寺を建てたこと。 2つ目は、北京初のチベット僧院ガンデン・チンチャクリンを設立したこと。 3つ目はチャンキャ3世が乾隆帝にチャクラ・サンヴァラ尊のを授けたことである。 灌頂 かんじょう とはサンスクリット語でアビシェーカ、チベット語ではワンと言い、「仏の力を授かること」を意味している。 その一方で退廃の芽生えもあった。 乾隆帝は奸臣の(和 珅)を重用し続けた。 ヘシェンはと他の臣たち全てに憎まれていた。 と呼ばれる思想弾圧で多くの人々を処罰し、も厳しく実施した。 1738年 乾隆三年 、10月に正室との皇二子である永璉 えいれん を9歳で亡くした。 その2月後の12月、という画家に「歳朝図」の作成を命じ、皇帝と皇子たちの団欒のさまを活写させたという。 その出来上がった「歳朝図」には永璉の姿も描かれていたという。 この際皇二子を亡くしているが、元々乾隆帝には17人の皇子がいた。 下の「后妃」の欄を参照 しかし乾隆帝が85歳にて退位しようとした時には50歳の皇八子永璇 えいせん ,皇十一子永瑆 えいせい ,皇十五子永琰 えいたん ,皇十七子永璘 えいりん の4人しかのこっていなかったという。 、治世60年に達した乾隆帝は祖父の治世61年を超えてはならないという名目で十五男の永 琰()に譲位しとなったが、その実権は手放さず、清寧宮で院政を敷く一方でヘシェンに政治権限を委ねた。 いかに嘉慶帝といえども、乾隆上皇が生きている間はヘシェンの跳梁をどうにも出来ず、宮廷内外の綱紀は弛緩した。 晩年の乾隆上皇は認知症を疑われる行動をし、王朝に老害を撒き散らした。 に崩御。 陵墓は内の裕陵。 ヘシェンは乾隆上皇の死後ただちに死を賜っているが、没収された私財は国家歳入の十数年分 に達したという(当時の世界のGDPの3割が清である)。 期のに国民党の軍閥によって東陵が略奪される事件が起き()、乾隆帝の裕陵及びの定東陵は、墓室を暴かれ徹底的な略奪を受けた。 これは最後の皇帝だったにとってはに紫禁城を退去させられた時以上に衝撃的な出来事であり、彼の対日接近、のちの建国および彼のへの再即位への布石にもなった。 文化事業 [ ] この節のが望まれています。 主に: 出版事業など ( 2020年1月) 后妃 [ ]• 長女(夭逝)、三女:固倫和敬公主、二男:端慧皇太子永璉(夭逝)、七男:哲親王永琮(夭逝)• ()(ナラ氏、那拉氏):江南巡幸における杭州の視察の際、当時の満洲族としては禁忌であった断髪をしたことで皇帝及び皇太后への呪詛とみなされ(断髪をした理由は諸説あり)、皇后を事実上廃された。 没後、葬儀は皇貴妃の格式で執り行われ、皇后であったが乾隆帝の裕陵には附葬されず、純恵皇貴妃の園寝に埋葬され、諡号もつけられていない。 十二男:貝勒永璂、五女(夭逝)、十三男:永璟(夭逝)• 七女:固倫和静公主、十四男:永璐(夭逝)、九女:和碩和恪公主、十五男:永琰()、十六男(夭逝)、十七男:慶親王永璘• (ガオギャ氏、高佳氏)• (蘇氏)• 三男:循郡王永璋、六男:質親王永瑢、四女:和碩和嘉公主• (陸氏)• (フチャ氏、富察氏)• 長男:定親王永璜、二女(夭逝)• (ギンギャ氏、金佳氏)• 四男:履親王永珹、八男:儀親王永璇、九男(夭逝)、十一男:成親王永瑆• (陳氏)• (バリン氏、巴林氏)• (ダイギャ氏、戴佳氏)• 六女(夭逝)、八女(夭逝)• (ケリェテ氏、珂里葉特氏)• 五男:栄親王永琪• (イルゲンギョロ氏、伊爾根覚羅氏)• 晋妃(フチャ氏、富察氏)• ()(ホージャ氏、和卓氏)ウイグル族。 ()のモデル。 舒妃(イェヘナラ氏、)• 十男(夭逝)• 惇妃(汪氏)• 十女:固倫和孝公主 ほか• 和碩和婉公主 - 父は和親王弘昼 出典・脚注 [ ]• 増井経夫『大清帝国』講談社〈講談社学術文庫〉、2002年、120頁。 乾隆30年代にビルマに内乱が起こり、乾隆帝はこれに介入して乾隆34年(1769年)にビルマを朝貢国とした。 増井経夫『大清帝国』講談社〈講談社学術文庫〉、2002年、120頁。 乾隆53年(1788年)ベトナムが王朝交替で乱れると、これに介入して同じく朝貢国とした。 『乾隆帝のコレクション』15、日本放送出版協会〈故宮博物院〉、1999年。 で紹介放映され、書籍化。 中野美代子『乾隆帝-その政治の図像学』文春新書、2007年4月、第1刷、90-91頁。 石濱裕美子『清朝とチベット仏教-菩薩王となった乾隆帝』早稲田大学学術叢書、2011年9月30日、第1刷、150-168頁。 中野美代子『乾隆帝-その政治の図像学』文春新書、2007年4月、第1刷、41頁。 寺田隆信『『紫禁城史話 中国皇帝政治の桧舞台』』中公新書、1999年3月、初版。 日本語文献 [ ]• 『清朝とチベット仏教 菩薩王となった乾隆帝』 出版部、2011年、。 『乾隆帝 その政治の図像学』 〈〉、2007年、。 『中国文明の歴史9 清帝国の繁栄』 〈〉、2000年、。 『東洋の歴史9 清帝国の繁栄』(人物往来社、1967年)を文庫化。 『宮崎市定全集13 明 清』(、1993年)にも収録。 『大清帝国』 、2002年、• 『』(、1974年)を文庫化。 石橋崇雄 『大清帝国への道』 講談社学術文庫、2011年。 『大清帝国』(講談社選書メチエ、2000年)を文庫化。 『興亡の世界史17 大清帝国と中華の混迷』講談社、2007年/講談社学術文庫、2018年• 『乾隆皇帝』 、1961年• 『乾隆帝伝』 、2016年。 初刊版は生活社(1942年)。 新版は、新居洋子校注・解題『円明園の研究』を収録 以下は史料文献• 『中国訪問使節日記』 訳注、東洋文庫。 訳注 『士中国書簡集3 乾隆編』• 矢沢利彦 『西洋人の見た中国皇帝』 東方書店、1992年。 史書の編訳解説• 『』 長谷川強校注、(全3巻)、1991年 江戸時代の随筆。 乾隆帝についての逸話を収録。 登場作品 [ ] 小説• () - 著者の故郷で伝わる民間伝承をもとにして、「乾隆帝漢人説」を設定された小説。 映画化• (1981年、香港、演:)• 第1部 紅花党の反乱/第2部 シルクロードの王女・香妃(1987年、香港・中国、演:) テレビドラマ化• (2002年、中国、演:)• (2008年、中国、演:)• () 映画• ()(2012年、中国・香港、演:) テレビドラマ• (1998年、中国、演:)• 乾隆與香妃(2004年、中国、演:)• (2009年、中国、演:)• (2011年、中国、演:)• ()(2013年、中国、演:)• (2017年、中国、演:)• (2018年、中国、演:) 漫画• モンスターバンケット() 関連項目 [ ]• - にある夏期の別荘宮殿• - にある乾隆帝が建てさせたチベット様式の寺廟で.

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乾隆帝の生母について─甄嬛のモデル、海寧陳氏の元ネタ─

乾隆帝

もくじ• 「瓔珞」第70話 最終回 来世への誓い 輝発那拉 ホイファナラ皇后は「火事の大混乱の中で私の身を案じましたか」と 乾隆帝 けんりゅうていに聞く。 返事を待たず、もう我慢できないと取り乱した皇后は、いかに自分が乾隆帝のことを想い行動したか語る。 その点、 瓔珞 えいらくは己のことしか考えず乾隆帝を利用しているだけだと批難した。 乾隆帝が皇后を連行するように言うと、取り乱し短剣を振りかざして、近づくなとわめく。 富察 ふちゃ皇后より、 高貴妃 こうきひより、 純妃 じゅんひより、どの 妃嬪 ひひんよりも陛下のことを思っている、涙ながらに皇后は言う。 だが乾隆帝は、文一つで輝発那拉皇后が杭州の軍を動かしたことを指摘。 皇后は、それだけでなく随行している杭州の役人も手の内のものだと話す。 力をつけるため役人たちの弱みを握り言うことを聞くように長年恐れさせてきたのだと。 そして乾隆帝の死後、政権を操るつもりでいたと白状する。 だが愛するゆえに殺せなかった。 皇后はそう言うと、短剣で自らの髪を切る。 満州族は国葬でのみ髪を切る、正気の沙汰とは思えない行動だった。 乾隆帝は皇后を紫禁城に返すよう命じる。 そして 和親王 わしんのう 弘昼 こうちゅうも連行された。 皇后が落とした短剣を拾った 珍児 ちんじは 袁春望 えんしゅんぼうに襲いかかる。 十数年も騙されていたと知ったからだ。 だが袁春望に返り討ちにされ短剣が刺さり死ぬ。 袁春望は逆らえず罪を犯したが、関わった役人の名前を言うので許してほしいと平伏する。 瓔珞は笑い出し「策を弄した張本人がなにを」と言った。 瓔珞は過去に袁春望が話したことを思い出し、探らせるため小全子を 太行 たいこう山に行かせていた。 太行山と聞いた皇太后は人払いをする。 瓔珞は暴露する。 袁春望は、 銭 せん氏が 匪賊 ひぞくをひきつけた時、先帝が隠れた農家の娘が産んだ子供だと。 そして自分だけが恵まれない憎しみから皇太后と乾隆帝を殺そうと策を弄した。 関係がないはずの皇太后は様子がおかしい。 瓔珞は第5皇子に手を出したことを批難する。 す り替えられた虫は、 埋葬虫 しでんむしと言い、それは死体を喰らい血や肉を見ると猛毒を発する。 瓔珞は第5皇子を助けるため手を噛まれ毒に侵されていた。 解毒薬はない。 皇太后は先帝に落とし種がいるなどありえないと言う。 くだらぬ嘘を信じて、普通の幸せを捨て太監に身を落とした、そう皇太后が憐れむと、袁春望は半狂乱に。 乾隆帝は肉削ぎの刑をと命じるが、皇太后は慌てて止める。 誰も口にはしないが袁春望は先帝の子らしい。 紫禁城に戻り 葉天士 ようてんしの診察を受ける瓔珞。 だが手の施しようがないという。 乾隆帝は埋葬虫について調べるように戦地の 傅恒 ふこうに命じていた。 乾隆帝が政務で側を離れると、瓔珞は吐血し気を失う。 瓔珞が目覚めると 海蘭察 はいらんちゃが来ている。 海蘭察が解毒薬を持ち帰り瓔珞の命は助かった。 だが様子がおかしい。 傅恒は解毒薬を作る草を取るため 瘴気 しょうきの深い場所に入り、瘴気に侵されたまま無理をして戦に向かい死んだと話す。 一気に決着をつけるため離脱することが出来なかった、病気であろうとも勝利を求められる。 海蘭察は傅恒の最後の問いを瓔珞に聞かせる。 「魏瓔珞、私は生涯をかけて君を守り抜いた。 来世では私を守ってくれるか。 」 瓔珞は一人になると、「わかったわ、約束する」と呟いた。 皇后は位を剥奪された。 皇后が1人で食事をしているところへ、瓔珞がやってくる。 皇后は、なぜ乾隆帝に取りなし軽い処分になるよう配慮したのかと聞く。 瓔珞は、 辛者庫 しんじゃこで行き倒れたとき救われたことがあるから、と答えた。 皇后は、瓔珞が袁春望の策略に気づいていたと指摘する。 理由は和親王を殺すためだ。 姉の復讐を24年間1日たりとも忘れていなかったのだろうと。 瓔珞は何も言わない。 海蘭察は牢の中の和親王に毒酒を運ぶ。 これを飲めば紫禁城に帰れると。 病死扱いとして処分されるらしい。 瓔珞は皇貴妃となった。 終わった… 途中からもう涙でまえが見えなくなって…えぎゅぅ… 傅恒の最後の言葉が単純な愛の言葉ではなかったところにもう泣けてきちゃってだめでした。 感動をありがとう。 確実に今年のNo. 1作品だし、今後これ以上の作品出てくるのか?ってくらい面白かった。 はーとうとう見終わってしまった悲しいよ。 12月からチャンネル銀河で放送されるので、また人気が広まると思います! 次は、瓔珞の攻守交代バージョンを見ていこうかな。 瓔珞の番外編「金枝玉葉」がNetflixで配信中 「瓔珞」50話から最終話までのまとめ 短時間で知りたい人用 まずは、瓔珞と敵対している妃嬪たちが今後どうなっていくのか。 と言っても、ほぼほぼもう雑魚しか残っていないんですけどね。 とりあえず、52話まではネタバレ感想書いているので、その続きあの辺りから始めます! 純貴妃の最期 純貴妃は意外にあっけなく退場していきます。 経緯はこんな感じ… 純貴妃は瓔珞を始末するため愉妃に手を汚させようとします。 愉妃は突然体調不良を起こした息子は瓔珞の宮にしかないトリカブトを食べたと主張し、乾隆帝に瓔珞を罰するよう訴えます。 これは太医もぐる。 危うく策略にはまりそうになった瓔珞ですが、袁春望がすぐに葉天士を呼んできて適切な治療をしたため、原因はトリカブトではなく大量に食べた人参だったことがわかります。 そして、太医が愉妃に命じられたと白状し、愉妃は純貴妃に命じられたと主張したため、純貴妃は純答応に格下げされます。 さらに!純貴妃の侍女・玉壺を拷問し、家族を人質にして脅すことで、「純貴妃は皇后の息子を死に至らしめた火事の要因を作った」と乾隆帝に白状させます。 裏で操っていたのは皇后なのにね。 その晩、幽閉されていた純答応のところにやってきた皇后は、瓔珞がこのために妃嬪になったと教え、恨みを晴らすべく彼女を殺しました。 退場! 愉妃は裏切り者? 一度は瓔珞と打ち解けたかのように見せかけて、純貴妃の命令で策略にはめようとした愉妃。 息子を守るために何でもしていたように見えますが、実はすべて純貴妃への報復だった様子。 皇后が自害する要因を作ったのが純貴妃だという話を、愉妃は瓔珞から聞きます。 それを聞いた彼女は瓔珞の復讐を手助けするために、純貴妃の側についたと。 最終的に彼女は紫禁城を追い出されます、でもそれが幸せなのかもね。 爾晴さん もっと上手に立ち回ればいいのに、青蓮を妓楼に売って間接的に殺してしまったことで、傅恒との仲が決定的に壊れてしまった爾晴さん。 実は爾晴、息子を火事で亡くした富察皇后を見舞った時に、乾隆帝と寝て子供が出来たという話をしていたのです。 皇后の自害を後押しする形になってしまった…許さん…。 どうにも八方塞がりということで、乾隆帝に直訴しに紫禁城へ行きます。 紫禁城へやってきた爾晴を、瓔珞は皇后の位牌の前に連れていきます。 そして自害しろと毒薬を渡し、爾晴は死にます。 でもこれによって順調だった乾隆帝との仲がこじれてしまうんだよ… 嫻妃・皇后 恨みに突き動かされ暗躍してきた皇后ですが、一度は瓔珞と条件付きの平和協定を結びます。 しかしそれを崩したのは袁春望。 彼は瓔珞のことを許したと見せかけて近づき、今度は皇后に従順だと思わせておきながら影では色々と悪巧みをしています。 袁春望の策略により、皇后は弘昼と手を組み謀反を起こすことに… ここから最終回に繋がります。 最終回 第70話 の大体のあらすじ 皇后は謀反を起こし失敗、弘昼も捕らえられます。 乾隆帝はその罪を咎めようとしますが、すべての罪は袁春望にあると瓔珞が証言したことで皇后は助かり、その経緯で袁春望が先帝の子供ではないことが明らかに。 復讐のために動いていた袁春望は、それを聞いて気が狂ってしまいます。 最終的に、瓔珞は皇貴妃に封じられました。 めでたしめでたし….

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