ヤンツォンジャン 使い方。 業務スーパー「洋葱醤(ヤンツォンジャン)」辛み+旨み+油=何にかけても美味!!

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マッツォ 千張(チエンジャン)ともいう 豆腐皮 ドゥフゥピィ ゆば 腐竹 フゥヂュウ 棒状に乾燥させたゆば 素火腿 スゥフォトェイ 味つけゆばを棒状に固めたもの 豆腐干 ドウフゥガン 押し豆腐 豆沙 ドウシャア あずきのあん 乾物 イエンウオ つばめの巣 官燕 ゴワンイエン 上等なつばめの巣 魚翅 ユィチー ふかのひれ 鮑翅 バオチー ふかの丸びれ 散翅 サンチー ほぐしたふかのひれ 翅餅 チービン 散?をまとめて乾燥したもの 海参 ハイシェン きんこ。 クッキングシートをオーブン庫内のサイズに切っておく。 オーブンを最高温度で余熱開始。 白菜は油通しする代わりに電子レンジにかけてトロトロに仕上げます。 これは手軽でおいしそうですね。 マッツォ 普通に生姜醤油のような感じでおいしいです。 とりあえず油葱酥がたっぷり入っていれば、それっぽい味になります。 油が温まったら中火にし、野菜類が色づいてきたら弱火にする。 荷葉餅(ホォイエビン)ともいう 薄餅 バォビン 春餅(チユンビン)はこの皮で肉や野菜、卵等の料理を巻いて立春の日に食べる 粉皮 フェンピィ 緑豆デンプンで作った薄皮状のもの。 強力粉と薄力粉をザルでふるってボウルに入れ、泡立て器で均一になるように混ぜておく。 主要料理 切り方 糸糸 スー 千切り 条 ティヤオ 拍子木切り 丁 ディン さいの目切り 方 ファン 正方形切り 象眼 シヤン・イエン ひし形切り 末 モォ みじん切り ? ソン みじん切り 小米 シヤオ・ミィ みじん切り 泥 ニィ すりつぶしたり、細かく切ったりして、 茸 ロン ? ロン ねっとりとした状態にしたもの 片 ピエン 薄切り、そぎ切り ? コワイ 大きいぶつ切り 段 ドワン 細かいものぶつ切り 竜 ロン じゃばら切り 兎耳 トゥアル 兎の耳のようなくさび型に切る 馬耳 マァアル 馬の耳のようなくさび型に切る 排 パイ たたきつぶす 紋 ウェン 網の目のすじ目を入れる 仏手 フォ・ショウ 手のひら型に切る 花 ホワ 飾り切り。 焼きそば まずは普通にマルちゃんの焼きそばに挑戦です。 姜葱醤 ジャンツォンジャン 鶏のから揚げは生姜ともともと相性がいいですし、十分いける使い方です。 ガンラン 中国のオリーブの実 松子 ソンズ 松の実 腰果 ヤオグオ カシューナッツ 花生仁 ホワションレン 落花生 干蓮子 ガンリエンズ はすの実 白果 バイグオ ぎんなん 胡桃 フゥタオ くるみ 栗子 リィズ くり 芝麻仁 ヂーマァレン ごま 瓜子仁 ゴワズレン すいかやかぼちゃの種核 野菜や果物の加工品 醤菜 ジャン・ツァイ みそ漬け ?菜 シエン・ツァイ 塩漬け 酸菜 ソワンツァイ 発酵させた漬け物 醤蘿蔔 ジヤンルォボ 大根のみそ漬け 醤瓜 ジヤンゴワ うりのみそ漬け ?雪里? シエンシュエリィホン からし菜の類の塩漬け 泡菜 パオツァイ 野菜の塩水漬け 搾菜 ヂャアツァイ ザーサイ 酸白菜 ソワンバイツァイ 酸味の強い白菜の漬けもの 糖醋蒜 タンツゥソワン にんにくの甘酢漬け 蜜餞 ミィジエン 果物の砂糖漬け 糖蓮子 タンリエンズ はすの実の砂糖漬け 糖蓮藕 タンリエンオウ れんこんの砂糖漬け 糖 タンドンゴワ とうがんの砂糖漬け 糖山? タンシャンヂャア さんざしの砂糖漬け 糖姜 タンジャン しょうがの砂糖漬け 糖青梅 タンチンメイ 青梅の砂糖漬け 橘餅 ジュイビン きんかんの砂糖漬け 甜柚皮 ティエンヨウピィ ざぼんの皮の砂糖漬け 蜜棗 ミィザオ なつめの砂糖煮 果子醤 グオズジヤン ジャム 穀類とその他加工品 大米 ダァミィ 米 粳米 ジンミィ うるち米 糯米 ヌオミィ もち米 大麦 ダァマイ 大麦 小麦 シヤォマイ 小麦 小米 シヤォミィ あわ。 【 事後連絡でもよいのでお寄せ下さい(楽しみにしています)】 ・学校や大学の宿題や課題で当サイトを活用してくれた児童・生徒・学生さん。 黒醋(ヘイツウ)ともいう 醤油 ジヤンヨウ しょうゆ 深色醤油 シェンソージヤンヨウ 濃い口しょうゆ 浅色醤油 ジエンソージヤンヨウ うす口しょうゆ 料酒 リヤォジュウ 料理用の酒 黄醤 ホワンジヤン 大豆を主材料にした赤みそ。 肉は火で焼き、種を入れないパンと苦菜を添えて。 中華料理用語種類別 味は濃い目に作る• 僕が魯肉飯を作るときは、チューブ入りニンニクを使うので、包丁すら使いません。 ・豚バラ肉 (薄切り) 200g ・豚もも肉 (薄切り) 200g ・木綿豆腐 (水けをきる) 100g ・白菜 500g ・チキンスープ 大さじ4 *顆粒 かりゅう チキンスープの素 もと (中国風)を 表示どおりに湯で溶いたもの。 焼けたあとは水分が飛ぶように網の上などに置いておくと、カリっとしたクラッカー状になります。 関連レシピ. こちらは大同電鍋でつくったお粥に魯肉飯と青菜を乗せた朝食です。 弱火でじっくりと煮詰めていきます。 鶏のから揚げ 今回は下味に使用... ・しょうゆ 大さじ2 ・オイスターソース 小さじ2 ・こしょう 少々 ・塩 ・揚げ油 全体備考 【ねぎ油のつくり方】 ラード 200g サラダ油 カップ2 ねぎ(青い部分10cm長さに切る)150g たまねぎ(1cm厚さに切る)75g しょうが(包丁でつぶす)30g にんにく(包丁でつぶす)15g 鍋にすべての材料を入れ、強火にかける。 ヒルナンデス 洋葱醤 ヤンツォンジャン : ひろさん日記 醋溜(ツウリユウ)ともいう 水晶 シュエイジン 透明なあん。 よって、生地をこねたり延ばしたりする工程をすばやく行うと良いです。 但し葱花(ツオンホウ)はねぎのみじん切り 調理器具 菜?子 ツァイドェンズ 中国式まな板 菜刃 ツァイダオ 包丁 鍋子 グオズ 鍋 高圧鍋 ガオヤーグオ 圧力鍋 ? チョン 焼きぎょうざなどに使う鉄鍋 沙鍋 火鍋子 シャアグオ 土鍋 汽鍋 蒸籠 チィグオ 陶製のふたつき蒸し鍋 ?? ヂョンロン 中華せいろう ?? ヂャアリエン 大型穴じゃくし 鉄? ロウシャオ 穴じゃくし 鉄? ティエチャン 鉄べら 食器 盤子 パンズ 円形盛り皿 深菜盤 シェンツァイパン 深めの大皿 大円盤 ダァユアンパン 円形大皿 長円盤 チャンユアンパン 楕円大皿 ? ヂョン 底の深い円形の器 湯碗 タンワン スープ鉢 小湯碗 シヤオタンワン スープ茶わん ?子 ディエズ 取り皿 湯? タンチー ちりれんげ 味? ウェイディエ 薬味入れ ?子 コワイズ ハシ 茶壷 チャアフゥ 土びん 茶碗 チャアワン 茶わん 酒壷 ジュウフゥ 酒をつぐ容器 酒盃 ジュウベイ さかずき. 生姜をいちいちすりおろおすのが面倒!... ただ実際は生姜のネギ油漬けといった感じです。 材料と調理のこつ :• 開けるとこんな感じ。 粟(シュウ)ともいう 玉米 ユィミィ とうもろこし 高梁 ガォリヤン こうりゃん 麺粉 ミエンフェン 小麦粉 米粉 ミィフェン 米の粉。

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1278年から1281年にかけてのシロンスク、緑色がヘンリク3世の領土 ヘンリクの幼少期について知られていることはほとんどなく、に曾祖母であるの式に参列しているのみである。 1274年に父が死去した時、ヘンリク3世は未成年であった。 ヘンリク3世が初めて政治の場に参加したのは、ヴィエルコポルスカ公(母方の従兄)と共に、父方の伯父であるに対する軍事遠征を行った時である。 この遠征は、ボレスワフ2世が甥でヘンリク3世の従兄に当たる公(高潔公)から領土的譲歩を引き出すために、(ドイツ王)と同盟してヘンリク4世を捕え、レグニツァ城に幽閉したことが原因で起きたものだった。 ヘンリク3世と王は囚われの身となった幼いヴロツワフ公を救出するため、シロンスク諸公の同盟軍を組織した。 しかし、同盟軍は1277年のストレツの戦いで敗北した。 レグニツァの軍勢の総大将はボレスワフ2世の長男であった。 これが、ヘンリク3世とヘンリク5世の因縁の対決における最初の衝突となった。 1年後の、ヘンリク3世は歴史的決戦であったに参加し、ボヘミア王オタカル2世の大敗と戦死に立ち会うことになった。 同年、ヘンリク3世は弟達に領土を分割することを余儀なくされた。 ヘンリク3世は公国内の主要都市である、ビトム・オジャンスキ、コジュフフなどを保持し、すぐ下の弟コンラト2世はシチナヴァを、末弟プシェムコはとノヴォグルト・ボブジャンスキをそれぞれ領有した。 、ヘンリク3世、レグニツァ公ヘンリク5世及びヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世は、ヴロツワフ公ヘンリク4世がソンドヴェルで主催した諸公会議に招かれた。 ここでヘンリク4世は歓待の掟を破り、3人を逮捕した。 ヘンリク4世は3人に対し、自分に忠誠を誓わせただけで解放した。 この時何らかの目論見、あるいは相手からの脅迫があったのか、この出来事から数年間、ヘンリク3世は弟プシェムコと共にヘンリク4世と協力関係を持つようになり、ヘンリク4世とヴロツワフ司教トマシュ2世ザレンバとの争いでも、前者に加勢している。 ヘンリク3世が教会との関係を修復したのは、ヘンリク4世が没した後だった。 ヘンリク3世とヘンリク4世との協力関係はにクロスノ・オジャンスキェにおいて、ヘンリク3世がヘンリク4世の手で騎士叙任を受けたことにより明白なものとなり、に弟プシェムコが死んだ時、両者の関係は臣従だと最もはっきりと示された。 プシェムコの遺領シチナヴァ公国は、ヘンリク3世の抗議を全く受けることなくヘンリク4世の領土に併合されたからである。 ヘンリク5世との戦い [編集 ] しかし1年後の、ヘンリク4世は32歳の若さで急死(毒殺されたとも)、この事件はその後のヘンリク3世の運命に甚大な影響を与えることになった。 遺言により、子供の無いヘンリク4世はヘンリク3世を相続人に指名した。 ところが、ヴロツワフの騎士と都市民は1か月後の7月中旬、新たな統治者ヘンリク3世を追い出した。 代わりに反乱者は、自分たちの統治者にレグニツァ公ヘンリク5世を招いたのである。 このヴロツワフにおける反乱の理由はよくわからないが、ヘンリク3世による過酷な統治が決定要因になったようである。 何が起きたにせよ、ヘンリク3世はこの事態を受け入れることはなく、さっそくヘンリク5世に対して宣戦布告をした。 1290年から1291年にかけてのシロンスク、黄緑色がヘンリク3世の領土 ヘンリク3世はヴロツワフにおいて短期間ながら復権を実現させたものの、その後ヘンリク5世に敗北、係争中であったホイヌフ、ボレスワヴィエツ、ゴシチシュフ、ノヴォグロジェツ、シチナヴァ、ヴィンスコ、スィツフ、トシェブニツァ、ミリチュ及びソンドヴェルに対する要求を放棄せざるを得なかった。 ただし、間もなくシチナヴァだけは回復した。 この戦争において、両者は素早く自分達を支援してくれる同盟者達を探し始めた。 ヘンリク3世はと同盟し、3月には公の娘メヒティルドと結婚して同盟を強化した。 さらにオットー4世、ヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世もヘンリク3世の味方に就いた。 特に後者とは、プシェミスウ2世がもし男子の相続人のないまま死んだ場合、ヘンリク3世がその領国を継承するという取り決めまで結んだ。 一方、敵のヘンリク5世はボヘミア王と同盟した。 全面戦争が起こると思われた矢先、にヘンリク5世はルトカと言う人物に捕らえられ、ヘンリク3世に引き渡された。 ヘンリク5世によるヴロツワフ統治はきわめて保守的なもので、貴族の中の一部党派と衝突、この反対派閥の1人であったパコスワフ・ズジェシツァは殺人罪で死刑を言い渡され、パコスワフの息子ルトカは父の仇を取ろうと機会を窺っていたからであった。 ヘンリク3世はヘンリク5世を半年近くも鉄籠に入れて監禁、ヘンリク5世のヴロツワフ公位は認めたが、ナムィスウフ、ビェルトゥフ、オレシニツァ、クルチュボルフ、ブィチナ、ヴォウチン、オレスノ、ホイヌフ、ボレスワヴィエツ(ヘンリク4世の領土の約3分の1)の町とそれぞれに付属する要塞、合わせて3万グジヴナの銀も支払い、今後5年間は自分の行う全ての戦争に協力することを約束して、ヘンリク5世を解放した。 ヘンリク5世はその後健康の回復しないまま5年後のに死去、弟のヤヴォル公が幼い子供達の摂政を務めた。 ヴィエルコポルスカを巡る争い [編集 ] 1296年、前年にポーランド王として戴冠を終えたばかりだったヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世がされた。 ヴィエルコポルスカ=グウォグフ間の同盟は1293年頃には既に崩壊しており、プシェミスウ2世はクヤヴィ公(短躯公)に接近していた。 このため、ヴィエルコポルスカの貴族達はにおいて、プシェミスウ2世の後継者にヴワディスワフ1世を推戴しようとした。 ところが、ヘンリク3世は1290年にプシェミスウ2世と交わした約定は現在でも有効なままだと考えており、自分こそがプシェミスウ2世の唯一の相続人だと主張した(プシェミスウ2世は3度も結婚していたが、一人娘を授かっただけであった)。 ヘンリク3世とヴワディスワフ1世はにクシヴィンでヴィエルコポルスカを巡る論争に決着をつけた。 これにより、ヘンリク3世が領有するのはオブラ川以南の地域のみとされたのである。 同時にヴワディスワフ1世はヘンリク3世の長男ヘンリク4世をポズナンにおける相続人とし、もし自分が男子を残さずに死んだ場合は、このヘンリク4世がヴィエルコポルスカ全域を相続することをも取り決めた。 1296年から1301年にかけてのシロンスク、黄緑色がヘンリク3世の領土 1296年の約定締結において、ヘンリク3世がヴワディスワフ1世に対して大幅に譲歩したのには理由があった。 既にこの時、ヤヴォル公ボルコ1世との紛争を始めていたのである。 ヘンリク3世がクシヴィンに滞在していた時、ボルコ1世はホイヌフとボレスワヴィエツを奪取した。 ボヘミア王ヴァーツラフ2世の調停により、3月にズヴァノヴィツェにおいて両者は和解した。 ヘンリク3世はボルコ1世との和約を遵守し続けたが、前述の2都市に関しては返還させた。 1290年代末、ヘンリク3世はボヘミア王ヴァーツラフ2世との関係を改善させていった(例えば、1297年にで行われたヴァーツラフ2世の戴冠式にも出席している)。 反対にヴワディスワフ1世との関係は時が経つにつれて悪化していき、戦争に発展したが、1298年6月にコシチャンでヴワディスワフ1世と新たな同盟を結んだ(これにはヴロツワフ司教アンジェイ・ザレンバを筆頭とするヴィエルコポルスカの貴族達が反対していた)。 この条約は、ヘンリク3世は教会の承認を受けるのを条件に、未来の「王国」の大法官として、ヴィエルコポルスカ、東の地域、及び将来ポーランド王冠領となる全ての地域を完全に平定するために、「国王」ヴワディスワフ1世に援助を約束する、というものであった。 当時、ポーランド諸公同士の争いはボヘミア王ヴァーツラフ2世の勢力伸長にうまく利用されていた。 にクレンカの村で条約が結ばれ、ヘンリク3世はヴィエルコポルスカに対する要求権を永久に放棄する、と誓約した。 ヘンリク3世はボヘミア王ヴァーツラフ2世による干渉を受け入れたが、それは当時自らの領国においてヴロツワフ司教ヤン・ロムカとの争いに忙しかったためである。 紛争の原因は公国の帰属をめぐる問題だった。 ジャガンは以前、ヘンリク3世の弟コンラト2世が領有していたが、コンラト2世がイタリアの司教に選任されたため、1299年3月にヘンリク3世が接収した。 しかしコンラト2世が司教職を離れてジャガンに帰国した後も、不在時に同地域を支配していたヘンリク3世は弟に公国を返そうとはしなかった。 家臣たちや教会の介入があった後も、ヘンリク3世はコンラト2世に公国返還を拒んだため、ここにきて司教ヤン・ロムカはヘンリク3世をし、コンラト2世への支持を表明した。 両者の紛争はにようやく終結し、司教側の勝利が確定して、コンラト2世はジャガン公に返り咲いた。 一方、1299年の条約にもかかわらず、ヘンリク3世はヴィエルコポルスカ地方に対する相続要求を取り下げる意思がなかった。 こうした野心は、ボヘミア王であり、今やポーランド王をも兼ねていたヴァーツラフ2世との軍事衝突につながっていった。 ヘンリク3世を巡る身の危険は、ヤヴォル公ボルコ1世が死ぬと同時に、ヴァーツラフ2世がレグニツァ公ヘンリク5世の遺児達の新たな後見人となったときに最も高まった。 この微妙な緊張状態の中にもかかわらず戦争は勃発しなかったが、それはヴァーツラフ2世が息子に王位を確保することに集中していたためであった。 にヴァーツラフ2世が急死し、ヴァーツラフ3世も翌に毒殺、が断絶したことで、ヘンリク3世のヴィエルコポルスカ支配は実現に近づいた。 また、にコンラト2世が亡くなると同時に、ヘンリク3世は何の妨害もなくジャガン公国を取り戻し、グウォグフ公国を分割以前の状態に再統一出来たことも野心を後押しすることにつながった。 1306年の春、ヘンリク3世はついにヴィエルコポルスカ=クヤヴィの境目(コニン)とグダニスク(ポモジェ東部)まで進軍し、ヴワディスワフ1世を退却させた。 はヘンリク3世の支配に抵抗したが、ヘンリク3世はこの地を支配していたレグニツァ公(ヘンリク5世の長男かつヴァーツラフ2世の婿で、ヴァーツラフ2世の後継者を称していた)を追い出してにはカリシュを掌握した。 こうして、ヴィエルコポルスカ全域がヘンリク3世の支配下に置かれた。 間もなく、ヘンリク3世はボヘミアの新国王と同盟し、共同してボレスワフ3世の野心に対抗することを約束した。 内政 [編集 ] 国内政策において、ヘンリク3世は自身が恒常的に起こしていた戦争に自らの領国を巻き込むことはせず、この賢明な選択のおかげで公国は経済的にも順調に発展、主都グウォグフは名声と富の集中する有力都市となった。 また、ヘンリク3世は行財政改革を導入し、改革は都市民のみならず宮廷や貴族達にも影響が及んだ。 さらに10以上の都市を建設している(、ヴォンソシュ、ポルコヴィツェ、トファルドグラ、、、、プシェメント及びコシチャン)。 教会との関係でも、ヘンリク3世は気前のよい後援者であり続けた。 治世中、彼はいくつかの修道院と教区教会を築いている。 また、多くの職人(芸術家)を保護して、こうした職人達にヘンリク4世、(長身公)、グウォグフのコレギアタ(聖堂参事会の管理する教会)に葬られていた両親や弟達、ポズナン聖堂に埋葬されたプシェミスウ2世らの墓石を作らせている。 1309年12月9日に死去、ルビョンシュにあるの教会に葬られた。 彼の5人の息子達、ヘンリク4世、、ボレスワフ、ヤン、プシェムコ2世は父の遺領を分割して相続したが、これはグウォグフ公国の弱体化に繋がり、地元貴族の反乱とヴワディスワフ1世の逆襲で、までにヴィエルコポルスカは再びヴワディスワフ1世の支配下に入った。 子女 [編集 ] 1291年3月、ヘンリク3世はの娘メヒティルドと結婚し、9人の子供をもうけた。 ヘンリク4世(1292年頃 - 1342年1月22日)• (1294年頃 - 1366年12月22日)• ボレスワフ(1295年頃 - 1321年4月23日以前)• アグニェシュカ(1296年頃 - 1361年12月25日) - 1309年にと結婚、1329年にハルス伯アルラムと再婚• サロメア(1297年頃 - 1309年12月9日以前)• ヤン(1298年頃 - 1365年5月19日)• プシェムコ2世(1305年頃 - 1331年1月11日)• ヤドヴィガ(1308年頃 - 1309年以前) 遺言により、ヘンリク3世はを妻の終身の寡婦領とした。 外部リンク [編集 ]• 先代: 1274年 - 1309年 次代: メヒティルド 先代: シチナヴァ公 1290年 - 1309年 次代: ヘンリク4世 ボレスワフ ヤン プシェムコ2世 1294年 - 1309年 ナムィスウフ公 1294年 - 1309年 先代: コンラト2世 ジャガン公 1304年 - 1309年 先代: ヴィエルコポルスカ公 1305年 - 1309年 次代: ヘンリク4世 ポズナン公 1305年 - 1309年 次代: ヘンリク4世 ボレスワフ ヤン プシェムコ2世 グニェズノ公 1305年 - 1309年 カリシュ公 1305年 - 1306年 次代: 先代: カリシュ公 1307年 - 1309年 次代: ヘンリク4世 ボレスワフ ヤン プシェムコ2世.

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1278年から1281年にかけてのシロンスク、緑色がヘンリク3世の領土 ヘンリクの幼少期について知られていることはほとんどなく、に曾祖母であるの式に参列しているのみである。 1274年に父が死去した時、ヘンリク3世は未成年であった。 ヘンリク3世が初めて政治の場に参加したのは、ヴィエルコポルスカ公(母方の従兄)と共に、父方の伯父であるに対する軍事遠征を行った時である。 この遠征は、ボレスワフ2世が甥でヘンリク3世の従兄に当たる公(高潔公)から領土的譲歩を引き出すために、(ドイツ王)と同盟してヘンリク4世を捕え、レグニツァ城に幽閉したことが原因で起きたものだった。 ヘンリク3世と王は囚われの身となった幼いヴロツワフ公を救出するため、シロンスク諸公の同盟軍を組織した。 しかし、同盟軍は1277年のストレツの戦いで敗北した。 レグニツァの軍勢の総大将はボレスワフ2世の長男であった。 これが、ヘンリク3世とヘンリク5世の因縁の対決における最初の衝突となった。 1年後の、ヘンリク3世は歴史的決戦であったに参加し、ボヘミア王オタカル2世の大敗と戦死に立ち会うことになった。 同年、ヘンリク3世は弟達に領土を分割することを余儀なくされた。 ヘンリク3世は公国内の主要都市である、ビトム・オジャンスキ、コジュフフなどを保持し、すぐ下の弟コンラト2世はシチナヴァを、末弟プシェムコはとノヴォグルト・ボブジャンスキをそれぞれ領有した。 、ヘンリク3世、レグニツァ公ヘンリク5世及びヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世は、ヴロツワフ公ヘンリク4世がソンドヴェルで主催した諸公会議に招かれた。 ここでヘンリク4世は歓待の掟を破り、3人を逮捕した。 ヘンリク4世は3人に対し、自分に忠誠を誓わせただけで解放した。 この時何らかの目論見、あるいは相手からの脅迫があったのか、この出来事から数年間、ヘンリク3世は弟プシェムコと共にヘンリク4世と協力関係を持つようになり、ヘンリク4世とヴロツワフ司教トマシュ2世ザレンバとの争いでも、前者に加勢している。 ヘンリク3世が教会との関係を修復したのは、ヘンリク4世が没した後だった。 ヘンリク3世とヘンリク4世との協力関係はにクロスノ・オジャンスキェにおいて、ヘンリク3世がヘンリク4世の手で騎士叙任を受けたことにより明白なものとなり、に弟プシェムコが死んだ時、両者の関係は臣従だと最もはっきりと示された。 プシェムコの遺領シチナヴァ公国は、ヘンリク3世の抗議を全く受けることなくヘンリク4世の領土に併合されたからである。 ヘンリク5世との戦い [編集 ] しかし1年後の、ヘンリク4世は32歳の若さで急死(毒殺されたとも)、この事件はその後のヘンリク3世の運命に甚大な影響を与えることになった。 遺言により、子供の無いヘンリク4世はヘンリク3世を相続人に指名した。 ところが、ヴロツワフの騎士と都市民は1か月後の7月中旬、新たな統治者ヘンリク3世を追い出した。 代わりに反乱者は、自分たちの統治者にレグニツァ公ヘンリク5世を招いたのである。 このヴロツワフにおける反乱の理由はよくわからないが、ヘンリク3世による過酷な統治が決定要因になったようである。 何が起きたにせよ、ヘンリク3世はこの事態を受け入れることはなく、さっそくヘンリク5世に対して宣戦布告をした。 1290年から1291年にかけてのシロンスク、黄緑色がヘンリク3世の領土 ヘンリク3世はヴロツワフにおいて短期間ながら復権を実現させたものの、その後ヘンリク5世に敗北、係争中であったホイヌフ、ボレスワヴィエツ、ゴシチシュフ、ノヴォグロジェツ、シチナヴァ、ヴィンスコ、スィツフ、トシェブニツァ、ミリチュ及びソンドヴェルに対する要求を放棄せざるを得なかった。 ただし、間もなくシチナヴァだけは回復した。 この戦争において、両者は素早く自分達を支援してくれる同盟者達を探し始めた。 ヘンリク3世はと同盟し、3月には公の娘メヒティルドと結婚して同盟を強化した。 さらにオットー4世、ヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世もヘンリク3世の味方に就いた。 特に後者とは、プシェミスウ2世がもし男子の相続人のないまま死んだ場合、ヘンリク3世がその領国を継承するという取り決めまで結んだ。 一方、敵のヘンリク5世はボヘミア王と同盟した。 全面戦争が起こると思われた矢先、にヘンリク5世はルトカと言う人物に捕らえられ、ヘンリク3世に引き渡された。 ヘンリク5世によるヴロツワフ統治はきわめて保守的なもので、貴族の中の一部党派と衝突、この反対派閥の1人であったパコスワフ・ズジェシツァは殺人罪で死刑を言い渡され、パコスワフの息子ルトカは父の仇を取ろうと機会を窺っていたからであった。 ヘンリク3世はヘンリク5世を半年近くも鉄籠に入れて監禁、ヘンリク5世のヴロツワフ公位は認めたが、ナムィスウフ、ビェルトゥフ、オレシニツァ、クルチュボルフ、ブィチナ、ヴォウチン、オレスノ、ホイヌフ、ボレスワヴィエツ(ヘンリク4世の領土の約3分の1)の町とそれぞれに付属する要塞、合わせて3万グジヴナの銀も支払い、今後5年間は自分の行う全ての戦争に協力することを約束して、ヘンリク5世を解放した。 ヘンリク5世はその後健康の回復しないまま5年後のに死去、弟のヤヴォル公が幼い子供達の摂政を務めた。 ヴィエルコポルスカを巡る争い [編集 ] 1296年、前年にポーランド王として戴冠を終えたばかりだったヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世がされた。 ヴィエルコポルスカ=グウォグフ間の同盟は1293年頃には既に崩壊しており、プシェミスウ2世はクヤヴィ公(短躯公)に接近していた。 このため、ヴィエルコポルスカの貴族達はにおいて、プシェミスウ2世の後継者にヴワディスワフ1世を推戴しようとした。 ところが、ヘンリク3世は1290年にプシェミスウ2世と交わした約定は現在でも有効なままだと考えており、自分こそがプシェミスウ2世の唯一の相続人だと主張した(プシェミスウ2世は3度も結婚していたが、一人娘を授かっただけであった)。 ヘンリク3世とヴワディスワフ1世はにクシヴィンでヴィエルコポルスカを巡る論争に決着をつけた。 これにより、ヘンリク3世が領有するのはオブラ川以南の地域のみとされたのである。 同時にヴワディスワフ1世はヘンリク3世の長男ヘンリク4世をポズナンにおける相続人とし、もし自分が男子を残さずに死んだ場合は、このヘンリク4世がヴィエルコポルスカ全域を相続することをも取り決めた。 1296年から1301年にかけてのシロンスク、黄緑色がヘンリク3世の領土 1296年の約定締結において、ヘンリク3世がヴワディスワフ1世に対して大幅に譲歩したのには理由があった。 既にこの時、ヤヴォル公ボルコ1世との紛争を始めていたのである。 ヘンリク3世がクシヴィンに滞在していた時、ボルコ1世はホイヌフとボレスワヴィエツを奪取した。 ボヘミア王ヴァーツラフ2世の調停により、3月にズヴァノヴィツェにおいて両者は和解した。 ヘンリク3世はボルコ1世との和約を遵守し続けたが、前述の2都市に関しては返還させた。 1290年代末、ヘンリク3世はボヘミア王ヴァーツラフ2世との関係を改善させていった(例えば、1297年にで行われたヴァーツラフ2世の戴冠式にも出席している)。 反対にヴワディスワフ1世との関係は時が経つにつれて悪化していき、戦争に発展したが、1298年6月にコシチャンでヴワディスワフ1世と新たな同盟を結んだ(これにはヴロツワフ司教アンジェイ・ザレンバを筆頭とするヴィエルコポルスカの貴族達が反対していた)。 この条約は、ヘンリク3世は教会の承認を受けるのを条件に、未来の「王国」の大法官として、ヴィエルコポルスカ、東の地域、及び将来ポーランド王冠領となる全ての地域を完全に平定するために、「国王」ヴワディスワフ1世に援助を約束する、というものであった。 当時、ポーランド諸公同士の争いはボヘミア王ヴァーツラフ2世の勢力伸長にうまく利用されていた。 にクレンカの村で条約が結ばれ、ヘンリク3世はヴィエルコポルスカに対する要求権を永久に放棄する、と誓約した。 ヘンリク3世はボヘミア王ヴァーツラフ2世による干渉を受け入れたが、それは当時自らの領国においてヴロツワフ司教ヤン・ロムカとの争いに忙しかったためである。 紛争の原因は公国の帰属をめぐる問題だった。 ジャガンは以前、ヘンリク3世の弟コンラト2世が領有していたが、コンラト2世がイタリアの司教に選任されたため、1299年3月にヘンリク3世が接収した。 しかしコンラト2世が司教職を離れてジャガンに帰国した後も、不在時に同地域を支配していたヘンリク3世は弟に公国を返そうとはしなかった。 家臣たちや教会の介入があった後も、ヘンリク3世はコンラト2世に公国返還を拒んだため、ここにきて司教ヤン・ロムカはヘンリク3世をし、コンラト2世への支持を表明した。 両者の紛争はにようやく終結し、司教側の勝利が確定して、コンラト2世はジャガン公に返り咲いた。 一方、1299年の条約にもかかわらず、ヘンリク3世はヴィエルコポルスカ地方に対する相続要求を取り下げる意思がなかった。 こうした野心は、ボヘミア王であり、今やポーランド王をも兼ねていたヴァーツラフ2世との軍事衝突につながっていった。 ヘンリク3世を巡る身の危険は、ヤヴォル公ボルコ1世が死ぬと同時に、ヴァーツラフ2世がレグニツァ公ヘンリク5世の遺児達の新たな後見人となったときに最も高まった。 この微妙な緊張状態の中にもかかわらず戦争は勃発しなかったが、それはヴァーツラフ2世が息子に王位を確保することに集中していたためであった。 にヴァーツラフ2世が急死し、ヴァーツラフ3世も翌に毒殺、が断絶したことで、ヘンリク3世のヴィエルコポルスカ支配は実現に近づいた。 また、にコンラト2世が亡くなると同時に、ヘンリク3世は何の妨害もなくジャガン公国を取り戻し、グウォグフ公国を分割以前の状態に再統一出来たことも野心を後押しすることにつながった。 1306年の春、ヘンリク3世はついにヴィエルコポルスカ=クヤヴィの境目(コニン)とグダニスク(ポモジェ東部)まで進軍し、ヴワディスワフ1世を退却させた。 はヘンリク3世の支配に抵抗したが、ヘンリク3世はこの地を支配していたレグニツァ公(ヘンリク5世の長男かつヴァーツラフ2世の婿で、ヴァーツラフ2世の後継者を称していた)を追い出してにはカリシュを掌握した。 こうして、ヴィエルコポルスカ全域がヘンリク3世の支配下に置かれた。 間もなく、ヘンリク3世はボヘミアの新国王と同盟し、共同してボレスワフ3世の野心に対抗することを約束した。 内政 [編集 ] 国内政策において、ヘンリク3世は自身が恒常的に起こしていた戦争に自らの領国を巻き込むことはせず、この賢明な選択のおかげで公国は経済的にも順調に発展、主都グウォグフは名声と富の集中する有力都市となった。 また、ヘンリク3世は行財政改革を導入し、改革は都市民のみならず宮廷や貴族達にも影響が及んだ。 さらに10以上の都市を建設している(、ヴォンソシュ、ポルコヴィツェ、トファルドグラ、、、、プシェメント及びコシチャン)。 教会との関係でも、ヘンリク3世は気前のよい後援者であり続けた。 治世中、彼はいくつかの修道院と教区教会を築いている。 また、多くの職人(芸術家)を保護して、こうした職人達にヘンリク4世、(長身公)、グウォグフのコレギアタ(聖堂参事会の管理する教会)に葬られていた両親や弟達、ポズナン聖堂に埋葬されたプシェミスウ2世らの墓石を作らせている。 1309年12月9日に死去、ルビョンシュにあるの教会に葬られた。 彼の5人の息子達、ヘンリク4世、、ボレスワフ、ヤン、プシェムコ2世は父の遺領を分割して相続したが、これはグウォグフ公国の弱体化に繋がり、地元貴族の反乱とヴワディスワフ1世の逆襲で、までにヴィエルコポルスカは再びヴワディスワフ1世の支配下に入った。 子女 [編集 ] 1291年3月、ヘンリク3世はの娘メヒティルドと結婚し、9人の子供をもうけた。 ヘンリク4世(1292年頃 - 1342年1月22日)• (1294年頃 - 1366年12月22日)• ボレスワフ(1295年頃 - 1321年4月23日以前)• アグニェシュカ(1296年頃 - 1361年12月25日) - 1309年にと結婚、1329年にハルス伯アルラムと再婚• サロメア(1297年頃 - 1309年12月9日以前)• ヤン(1298年頃 - 1365年5月19日)• プシェムコ2世(1305年頃 - 1331年1月11日)• ヤドヴィガ(1308年頃 - 1309年以前) 遺言により、ヘンリク3世はを妻の終身の寡婦領とした。 外部リンク [編集 ]• 先代: 1274年 - 1309年 次代: メヒティルド 先代: シチナヴァ公 1290年 - 1309年 次代: ヘンリク4世 ボレスワフ ヤン プシェムコ2世 1294年 - 1309年 ナムィスウフ公 1294年 - 1309年 先代: コンラト2世 ジャガン公 1304年 - 1309年 先代: ヴィエルコポルスカ公 1305年 - 1309年 次代: ヘンリク4世 ポズナン公 1305年 - 1309年 次代: ヘンリク4世 ボレスワフ ヤン プシェムコ2世 グニェズノ公 1305年 - 1309年 カリシュ公 1305年 - 1306年 次代: 先代: カリシュ公 1307年 - 1309年 次代: ヘンリク4世 ボレスワフ ヤン プシェムコ2世.

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