沖 ノ 鳥島。 沖ノ鳥島まで魚とりに行くの?(領土問題漁業遠洋

幻想諸島航海記/中ノ鳥島

沖 ノ 鳥島

日本の漁業の形ってのは(養殖を除いて)大きくわけて下の3つ。 1 遠洋漁業 複数の船で船団を組み、数十日~数ヶ月世界の海で漁をする漁業。 かつお、まぐろ、さけ、ますなどが対象。 100トン以上の大型漁船を使用。 2 沖合い漁業 ほぼ日帰り可能な海域で、動力が10t以上の漁船を使った漁業。 いわし、あじ、かつおなどの大衆魚が対象。 3 沿岸漁業 ほぼその国の領海内で行なわれる漁法で、動力が10t未満または無動力の漁船、漁船を使用ない場合もある。 いわし、あじ、いか、さば、貝や海草などが対象。 これら3つの漁業のうち、漁獲量の割合で遠洋漁業は概ね10%前後で決して多くはないのだけれど、対象とする魚種が全く違うので、遠洋漁業でしか確保できない魚種も多いということになります。 したがって「あんな遠くまで行って魚取るメリットはあるんですか」に対する答えは、「あんなに遠くに行かないと手に入らない魚も多い」ということですね。 私たちが普段マグロやカツオの刺身を安価に入手できるのは、この遠洋漁業のおかげといってもいいかもしれません。 沖合いで獲れた生マグロなんて庶民の口にはそうそう入りませんし。 二番目のご質問の答えは、100トン以上の漁船で船団を組み、数ヶ月から半年くらいの航海、となります。 どんな生活?については、以下のページでその一端を知ることができると思います。 近くにいる魚で、量も十分取れるならわざわざ遠くまで生きないですけどね。 近くに住んでいない魚、量が取れない魚はどうすればいいんでしょうか? >質問2 あそこまで仮に取りに行くとしてどんな漁船で行き何日くらいかかり、漁船でどんな生活をするんですか? 6か月以上なんて言うのは当たり前にあります。 船に積んだままには出来ませんし、往復の時間 乗組員の費用 がもったいないですので、魚を採る船は魚を採ることに専念し、専用の冷凍運搬船が、魚を採っている船と日本の間をピストン輸送しています。 >沖ノ鳥島ってありますよね。 日本列島からだいぶ離れた島です。 >あんな遠くまで行って魚取るメリットはあるんですか? そうですよ、本土から離れているからこそ価値がある。 沖ノ鳥島があるおかげで、あの辺りまで日本の領海として漁業権を主張できる 本土から沖ノ鳥島までの海域を領海として主張できるって話です もしあの島がなければ、日本の経済水域はかなり縮小します なにも、あの島の周りだけ、って話じゃないんです 漁ができる海域は広ければ広いほどいい、つまり資源量が大きいという事ですね 資源量が大きければ、総量的な資源コントロールも余裕をもってやれますしね >常識的に考えてなるべく近くで捕獲したいはずですけど まあ、単純に同じ魚が、同じ量、漁獲できるんなら、近い方が楽ですけどね 外洋の魚と沿岸の魚じゃ同じじゃないしなぁ 同一魚種だって産地によってかなり違うでしょ? 遠洋特有の漁業資源だって豊富ですよ >公海で取れればそこでとって帰ってくるはずだと思いました 公海上の漁業はいろいろと面倒な事が多いからなぁ 領海内の方がはるかに楽だし ついでなんで・・・ 例えば沖ノ鳥島がアメリカ領だなんて事になれば、あの辺りの海はアメリカの領海となって、漁業しようとすれば領海侵犯になる どっかの国と繰り広げてる、あちこちの島の領土問題てのは、まさにそれだしね (海底資源に限らず、漁業資源の方が即時的に影響が大きいのさ).

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幻想諸島航海記/中ノ鳥島(その4)

沖 ノ 鳥島

陥没説は成り立つか? 「確かに、山田禎三郎による中ノ鳥島の発見報告はなんだかどうも怪しいみたいだ。 でも、島が何らかの形で実在していて、その後何らかの原因で消えてしまった、って可能性は否定しきれないんじゃないの?」 ここまで読み進めて、こんな風に思われた方もおられるかもしれない。 確かに、中ノ鳥島が実在した可能性については、実のところこれまであまり詳しい追求は行っていない。 それでは、このあたりで改めて本格的に検討してみることにしよう。 まず、中ノ鳥島附近の海底地形をきちんと確認するところから始めよう。 中ノ鳥島(ガンジス島)は海図上では北緯30度47分・東経154度15分、附近のガンジス礁は北緯31度5分・東経154度16分となっている。 また、山田禎三郎は島の位置を北緯30度5分・東経154度2分と報告している。 この辺りの海底は、プレート・テクトニクス上は太平洋プレートに属し、長期的には西側の日本海溝や伊豆・小笠原海溝に向かって徐々に沈みつつ動いてゆくことになる。 だが、これは数万~数億年単位での話である。 むしろ短期的には大規模な地殻変動は起こりにくいと考えられているし、実際にも地震や火山活動などは少ない。 火山活動が激しく、明神礁や福徳岡ノ場のような出没火山島もある伊豆諸島や火山列島近辺などとは条件が大きく異なるのである。 が、そのことはひとまず置いて話を進めることにしよう。 海上保安庁水路部発行の海底地形図(海図番号6304「日本近海海底地形図 第4」、1968。 1966年までの諸資料により編集)を確認してみると、この辺り一帯には実に水深5500~6000mに達する深い海が一面に広がっていることがわかる。 実は、この海域は「北西太平洋海盆」と呼ばれる巨大な深海平原の一部なのである。 これでははっきりいって、島の存在がどうのこうのいう以前の話だ。 もっとも、それではこの辺りの海岸はすっかりまっ平なのか、というとそういうわけでもなく、あちこちに海山が分布している。 そして、「中ノ鳥島」からそれほど離れていない場所にも、比較的大きな海山がひとつ存在しているのである。 (GEneral Bathymetric Chart of the Oceans; 大洋水深総図。 国際水路機関とユネスコ政府間海洋学委員会が共同して作成している、世界で最も権威ある海底地形図シリーズ)のサイトで公開されている、海底地形の名称に関する資料(「」)によれば、正確な位置は北緯29度25分・東経153度30分。 「Makarov Seamounts」という名前がつけられている。 となると、もしかしたらこのマカロフ海山こそがかつての中ノ鳥島の痕跡ではないか、などと想像したくなってくる。 20世紀のはじめ頃まではこの海山は水面に顔を出していたが、その後何らかの原因で沈降したのではないか、というわけだ。 位置も、まあ誤差の範囲と言って通る程度には近い(といっても100km前後は離れている計算になるが)。 「日本近海海底地形図」によれば、この海山の頂上附近の水深は1415m。 周囲の水深は5500m以上だから、実に4000m以上もの高さでそびえ立っていることになるが、それでもあまりに深すぎる。 仮に中ノ鳥島が標高数m程度の平坦な島だったとしても、実に1400m以上の沈降が起きたとしなければならなくなってしまう。 この深さでは、波によって島が浸蝕されて消滅した、という可能性はまずありえない。 波による浸蝕作用は海面ギリギリのところ、深くてもせいぜい海面下数10m程度までしか及ばないからだ。 同様の理由で、爆破など人為的な破壊行為によって消滅した、という線も駄目である。 地震の断層運動による陥没、という可能性にも無理がある。 一回の地震で断層がずれる規模には一定の限度があって、どんなに規模の大きい地震でも数m~10数m程度しか動かないのである。 少なくとも、それを超える確実な例は確認されていない(かつて関東大震災の際に、相模灘で100mに及ぶ上下動があったと報告されたことがあるが、今日では測定ミスと考えられている)。 それに、海底がそれだけ動けば、確実に津波が起きるはずである。 そしてその津波は当然、日本列島や小笠原諸島で観測されることになると思われる。 噴火などの火山活動による陥没ならどうか。 これなら、確かに1000m以上の大陥没を引き起こすことは不可能ではない。 だが、それだけの規模での陥没が一度に起これば、当然、大津波も一緒に起きてしまう。 その他にも、何らかの原因でとてつもない規模の土砂崩れが引き起こされたとか、いろいろな想像をすることは出来るが、いずれにせよ津波を引き起こさずに済ませるのはまず無理であろう。 要するに、一度に1000m以上の沈下というのは不可能ではないが、それが誰にも気付かれずに終わる、というのはまず無理と思われる。 それならば、地震や津波を引き起こさない程度の速度で、長い時間をかけて徐々に沈んだ、と考えればどうだろうか。 この場合、数年~数十年程度の時間で1000m以上の沈降が起きた、ということになる。 もし仮に1000m沈むのに10年かかったとすると、沈降速度は1年あたり100m、1日あたり約27cmである。 しかし、確かに断層が地震を起こさない程度にゆっくり動くことはあるが、その場合の速度は、速くてもせいぜい1年間に数cm~数10cm程度なのである。 従って、地学的に見て未知の異常な地殻変動が起こったとでもしない限り、このような沈降はまず考えられない。 ただ、火山活動の結果、海山の山体がゆっくり崩壊していった、という可能性なら、どうも全くありえないというわけでもなさそうだ。 といっても、この島が火山島だったとする根拠は特に何もない。 むしろ、山田禎三郎の報告や新聞報道などを見る限りでは(もちろん、いずれも全く信用できないのだが)、隆起珊瑚礁だと考えたほうが妥当そうなのである。 従って、結論として我々はこう考えざるを得ない。 現在の人類の科学では説明のつけようのない、恐るべき異常事態が起きたのだ。 そう、この海域には未だ人類の叡智の及ばない、得体の知れない不気味な「何か」が潜んでいるのである! ……冗談はさておき、残念ながら、この海域には島らしきものなど最初から存在しなかった、と考えるのが妥当そうである。 夢の無い結論で申し訳ないが、いたしかたあるまい。 もちろん、とてつもなく巨大な浮き島だったとか、実は島ではなくて謎の超巨大生物の背中だったとか、実は某国が密かに建造していた謎の秘密基地だったとか、実は謎の宇宙人の乗り物だったとか、そういうことも全く考えられなくはない、のではあるが……。 「内田某」と「発見」経緯の謎 「」で述べた1913-14年の中ノ鳥島(ガンジス島)探検隊の派遣に関して、1913年10月29日附『大阪朝日新聞』に、「中鳥島探検隊」と題する、派遣主である平尾幸太郎の談話記事が掲載されている。 これがまた、大変に興味深いというか、すこぶる奇妙な内容なのである。 まず平尾によれば、中ノ鳥島の「発見」の経緯は以下の通りである。 日本人が初めて此島を知つたのは去 [さる]明治四十一年 〔1908年〕のことで同島に漂着した小笠原島民が発見して其筋に届出でた、以来東京府小笠原島中鳥島 [なかのとりしま]と命名されて 明かに日本帝国の領土となつた、其際発見者は同島の燐礦を知つて四五人の同志を語つて組合を作り官憲に試掘願を差出した、その時の金主は東京の内田某で、前長野県代議士山田禎三郎氏なども関係した、然るに内田は探検費約一万二千円を投じて自ら踏査もした結果途法もない大金儲けが出来ると睨んで今更組合員が邪魔になり己れ一人で経営しやうと巧に説き伏せて各組合員の権利を四千円で買ひ取つて、さうして事業を進めやうとする中に或る事件で入監の身になつたので何うする事も出来ない、試掘願は二年の期限が二回まで切れて了つて現に入獄中の内田は空しくその権利を捨てヽ了ふことヽなつた 〔略〕 私 〔平尾〕は或る手蔓を以てその試掘願の期限が切れたのを知つた、さうして直に試掘願を東京鉱山局に差出し去る十月三日に許可を受けた、 〔後略〕 ([……]内は原文のルビ、〔……〕内は引用者註。 以下同じ) 『報知新聞』10月29日附夕刊の「探検隊の向ふ無人島は十億万円の燐礦を有す」という記事も、ほぼ同じ趣旨のことを報じている。 ニュースソースがおそらく同じであると思われるにもかかわらず、内容に微妙な食い違いがあるが、以下に引用しておく。 英国の海図には千八百年頃より記入ありしが吾国にては去る明治四十年 〔1907〕の春小笠原島の土民が漂白して偶然発見したるに初まり本年六月海軍水路部の海図に記入されたるものなり、同島が発見せられし当時 東京の 資本家内田某が小笠原、東京等の同志五名を語らひ匿名組合を設けて四十一年農商務省より燐礦採掘の許可を得某は一万五千円の費用を投じて単身探検に赴き予期以上の大宝庫たるを発見して帰りたるが某は此宝庫を他人と共に開拓するを好まず単独之を経営して巨利を得んとの野心を起し帰来同島を何等価値なきものゝ如くに言ひ触らして採掘権を自己一人のものとなし密かに開拓準備に着手しゐたり、然るに其後間もなく某は或事件に関係して東京監獄に収監され為めに其目的を達する能はず空しく権利を握りたる儘となりゐたるが該権利は本年七月満了し而も某は尚獄中に在るを以て 平尾氏より 改めて 採掘を 出願即ち十月十三日附を以て之が採掘を許可されたるなり ここでは山田禎三郎のほか、第一発見者とされる正体不明の「小笠原島民」、それにもう一人、中ノ鳥島に行ったことがあるという「内田某」なる謎の人物が登場する。 「その3」で引用した志賀重昂の談話にある「現に詐欺取材犯で長崎監獄に居る」「曽てカンヂス島に行きし事あると自称する男」は、経緯からするとどうもこの内田某のようである。 これらの記事だけでも、山田禎三郎の一見もっともらしい「発見報告」の裏で、非常に奇っ怪な事態が進行していたらしいことがわかる。 この記事を信じる限り、この「発見」劇の主役のはずの山田は実は脇役にすぎず、真の主役はこの内田某らしいのだ。 仮に、この内田某の探検が事実だとしても、かなりいかがわしい話である。 しかし、山田禎三郎だろうと小笠原島民だろうと内田某だろうと、実在しない島に行けるはずなどない。 つまり、誰かがどこかでとんでもない大嘘をついていることになる。 さてこうなると、実際にはいったい何があったのか、さっぱりわからなくなってくる。 だいたい、三人の登場人物のうち、素性がはっきりしているのは山田禎三郎だけで、あとは正確な本名すらもわからないのである。 いったい真相はどこにあるのだろうか。 「発見」から100年近く経った今となっては、もはや、それを突き止めるのは不可能なのかもしれないが……。 平尾幸太郎、中ノ鳥島探検を語る ともかく、『大阪朝日新聞』の平尾談話をもう少し続けて見てゆくことにしよう。 平尾によれば、中ノ鳥島は時価5億円の価値を持つリン鉱石(グアノ)の宝庫なのだという。 34km 2〕、干潮時は約五倍になつて燐礦の面積は実に六十二パーセントである、之を有名なるラサ島に比べると彼は三十三万四千四百坪 〔約1. 1911年にはラサ島燐礦合資会社(現・ラサ工業株式会社)が設立され、この島のリン鉱石の採掘を始めている。 山田禎三郎報告によれば島の面積は64万3700坪だが、干潮時には面積が約5倍になるというから(ずいぶん遠浅な島である)、この程度は誤差の範囲なのだろう。 なお、先に引用した『報知新聞』の記事にも、中ノ鳥島は「干潮時二百万坪、満潮時七十万坪の面積を有する砂山」である、と書かれている。 もっとも、「砂山」が大洋の真ん中に長期間にわたって存在し続けられるはずはないが。 えらく具体的でもっともらしい話だが、志賀重昂によれば、平尾幸太郎に「カンヂス島は必ず存在の事実ありや及び如何してあれ丈精細に判り居るや」と尋ねたところ、「いや怎 [さ]うか判らんが何分事業が大仕掛だからあの様に云わんと鳥渡 [ちよつと]都合が悪い」と答えたそうであるから、実は全くもって当てにならない話なのである。 また、平尾は探検隊についても威勢良くこう語っている。 平尾氏は同島唯一の而 [しか]も風浪高き西湊を平尾湾と命名し、また前の探検者が遺した波切岩を自分の名の一部を取つて太郎岩と命じ島の平地を幸 [かう]ヶ原と命名した 平尾はまだ見ぬ島の地名に、勝手に自分の名前をつけているのである。 微笑ましいというべきか、いい気なもんだというべきか。 事の顛末を知っている立場よりすれば、ただ苦笑するほかないのであるが。 梅丸、中ノ鳥島で遭難?! ところで、中ノ鳥島の珊瑚礁で船が遭難しかけた、という妙な話がある。 1921 大正10 年10月20日、東洋汽船のサイベリヤ丸から同社横浜支店に入った無線連絡によれば、太平洋海運の貨物船・梅丸が、アメリカのポートランド港から小麦を積載して横浜に向け航行の途中、「東経一五四度北緯三一度の洋上にある無人珊瑚島」である「ガンジス島附近」で遭難し、附近を航行していたサイベリヤ丸に無線で救助を求めてきた。 このため、サイベリヤ丸は直ちに現場に向かった。 このことを報じた『讀賣新聞』の記事 (10月21日附「梅丸/太平洋上で遭難」)は、「電文が簡単な為め未だ判明しないが或は濃霧に出会して航路を誤り遂に珊瑚礁に坐したものではないかと想像せられて居る」と報じている。 どうやら、海図を見た誰かが、遭難位置附近にガンジス島が記入されているのを見つけて、座礁事故ではないか、と思ってしまったらしい。 しかし、結局、梅丸の事故は大したものではなかったらしく、途中で無線で救助を断ってきている (『東京朝日新聞』同日附「サイベリヤ丸帰航す/遭難梅丸救助に及ばず」)。 中ノ鳥島は消えず……? 中ノ鳥島()・()で説明したように、「中ノ鳥島」は1946年11月22日附の水路告示によって海図より削除されている。 が、それでこの島が全ての地図からすんなり消されたかというと、決してそういうわけではない。 それどころか、「中ノ鳥島」は一部の法令(例えば1951年の「」)にさえ生き残り続けているのである。 『高等新地図』(地勢社 1953)・pp. 86-87「生活の舞台-世界-十一 大洋州」より。 例えば、佐藤弘[監修]・地勢社編集部[著]『高等新地図』(地勢社)という高校用地図帳の、昭和29 1954 年度版(1953年6月発行)を見ると、「大洋州」の地図の中に堂々と中ノ鳥島が描かれている。 おそらく、当時、小笠原諸島がアメリカの占領下にあり(返還されたのは1968年)、情報が入りにくかったことなども影響しているのだろう。 なお、海外でも似たようなことが起きているようである。 The University of British Columbia Press, 1984 (未訳)という著書がある。 題名の通り、19~20世紀に公刊された海図に記載されていたまぼろしの島々についてのエピソードをまとめた本であるが、ガンジス島についてもその「まえがき」の中でしっかりと触れられている。 というより、著者がまぼろしの島々に興味を持ったきっかけというのが、このガンジス島なのである。 ストンメルは、あるときたまたま1936年版『オクスフォード高級地図帳』 Oxford Advanced Atlas を見ていて、この島の存在に気づいたという。 最初、彼はいかにも海洋学者らしく、黒潮の観測基地として使えそうだと考えた。 だが、新しい海図を見て、この島が実在しないことを知ったのである。 よく見てみると、同じ地図にはさらに、ロス=ジャルディン諸島やポデスタ島(チリの沖合いにあるとされた島)という、ありもしない島が描かれているではないか。 彼はこうして、こういう島々にがぜん興味を持ち出したのである。 ストンメルによれば、そもそもガンジス島は、北緯31度・東経154度附近に位置する島についての4つの報告と、暗礁についての2つの報告をもとにして地図に描かれることになったらしい。 特に上陸したといった報告などはなかったようである。 国際水路局 (International Hydrographic Bureau; IHB. 1921年設立。 本部モナコ)が作成した航海上の疑わしい危険のリストには、ガンジス島は1932年まで、「1911年に汽船ウィネバゴ号がガンジス島に当てられた地点を通過したが、その存在のいかなる徴候も観測されなかった」などという註記つきで載っていたが、その後消されたという。 (なお、ストンメルは日本での事情については特に何も触れていない。 ) ストンメルは、1982年11月、ボストン・ホテル・スタートラー・ヒルトンのルフトハンザ航空オフィスにあった飾りの地球儀の上に、「ガンジス島」の文字が書かれているのを見つけている。 どうやらこの地球儀のメーカーは、この島がとうの昔にその実在を否定されていることを知らなかったらしい。 彼はその後、同社のロンドンとニューヨークのオフィスでも同じものを見ており、「気がつくと私は、ルフトハンザ航空のエージェントに、東京経由でガンジス島への休暇旅行の日程を整えてくれるように依頼したい、という激しい衝動と戦っていた」と書いている。 その他あれこれ の常設展示の中の、「東京ゾーン」の「モダン東京」のコーナーの、「多摩地域と伊豆の島々」の展示の辺りにある「1932年(昭和7)頃の定期航路図(往路)と電力供給開始年」というパネルに、伊豆諸島・小笠原諸島とともに、堂々と「中の鳥島」が描き込まれている(筆者は2001年6月にこの展示を確認した)。 このパネルの図版自体は、同博物館刊行の図録『図表でみる江戸・東京の世界』(東京都江戸東京博物館 1998, 2000)p. 91にも収録されている。 が、この地図では「中の鳥島」が「北緯30度2分 東経153度」となっており、南鳥島より西側にあったかのように描かれている。 まあ、もともと実在しない島なのだから不正確もへったくれもない、と言われればそれまでだが……。 なお、緯度がほぼ同じである鳥島と誤認した可能性も考えられるのでは、という意見もいただいたが、これはあいにく南鳥島誤認説以上に無理がある。 確かに緯度より経度の方が計測ミスしやすいのだが、まず、鳥島の面積は4. 4km 2で、山田報告書が述べる島の面積の約2倍もある。 それに、特徴的な形をした火山島である鳥島は、1902年8月、島の形を大きく変えてしまうほどの大爆発を起こしており、このとき島民125名は全員死亡している。 だから、もし1907年頃にこの島を訪れた者があったとすれば、繁茂する植物や堆積したリン鉱石などではなく、わずか5年前の噴火の生々しい爪跡を目撃することになったはずである。 しかも、これだけの被害があったにもかかわらず、1903年には八丈島民が再入植をしており、従って1907年当時はこの島は有人島だったのである。 もっとも、19世紀に目撃された「ガンジス島」が、実は南鳥島や鳥島などの誤認だった、という可能性なら、ないわけでもないのだが……。

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なぜ沖の鳥島が我が国にとって大切なのですか?

沖 ノ 鳥島

地勢 [ ] 地形 [ ] 一辺が約2kmのの平坦な島であり、最高地点のは9 m。 島の周囲はで浅くなっているが、が速く泳ぐのは危険である。 この海域はに含まれ、島の周囲は深い海に囲まれている。 サンゴ礁の外側は1,000 mの断崖となる。 日本の島としては唯一の東側にあり、日本で唯一上にある。 日本最東端のが存在し、この電子基準点は日本で唯一太平洋プレート上にあることからプレート運動の監視に重要な意義を持っている。 気候 [ ] 降水量と気温 でいう Aw に属する。 月平均気温2月21. 降水量は日本国内では少なめ。 日本ではと南鳥島を含むのそれぞれ一部がに属しているが、南西諸島はからの距離が近いため寒候期(10 - 3月)にはの大きな影響を受ける。 同じ熱帯でも、南西諸島南部(、、、など)は年中降水量が多いので Af に属する。 これに対して、南鳥島は大陸からの距離が遠いため年間の気温差が小さいが、日平均気温年較差が約6. 極値は、最低気温が 13. また、南鳥島はアメダス、気象官署をあわせた気象庁の観測所における11月、12月、1月の国内最高気温記録を保持している。 それぞれの34. 7 85. 5 29. 0 84. 2 30. 2 86. 4 31. 9 89. 4 34. 0 93. 2 35. 0 95 35. 6 96. 1 34. 7 94. 5 35. 3 95. 5 33. 5 92. 3 34. 2 93. 6 31. 6 88. 9 35. 6 96. 7 76. 5 24. 3 75. 7 25. 3 77. 5 27. 2 81 29. 0 84. 2 30. 9 87. 6 31. 3 88. 3 31. 0 87. 8 31. 0 87. 8 30. 3 86. 5 28. 7 83. 7 26. 6 79. 9 28. 3 82. 3 72. 1 21. 6 70. 9 22. 4 72. 3 24. 2 75. 6 26. 0 78. 8 27. 8 82 28. 4 83. 1 28. 2 82. 8 28. 3 82. 9 27. 8 82 26. 4 79. 5 24. 3 75. 7 25. 6 78. 3 68. 5 19. 3 66. 7 20. 2 68. 4 22. 2 72 23. 8 74. 8 25. 5 77. 9 26. 0 78. 8 25. 9 78. 6 26. 1 79 25. 8 78. 4 24. 6 76. 3 22. 4 72. 3 23. 5 74. 9 57 13. 8 56. 8 14. 2 57. 6 16. 4 61. 5 19. 1 66. 4 20. 0 68 21. 6 70. 9 21. 8 71. 2 21. 7 71. 1 20. 8 69. 4 19. 2 66. 6 16. 7 62. 1 13. 8 56. 8 mm inch 71. 7 2. 823 43. 2 1. 701 42. 6 1. 677 72. 4 2. 85 90. 3 3. 555 61. 4 2. 417 153. 2 6. 031 167. 3 6. 587 99. 7 3. 925 80. 3 3. 161 70. 3 2. 768 97. 2 3. 827 1,053. 6 41. 5 mm 11. 3 8. 6 7. 4 7. 8 8. 9 8. 3 13. 8 16. 6 14. 2 11. 7 9. 4 12. 2 130. 1 178. 5 227. 7 237. 6 274. 0 299. 4 274. 1 252. 0 256. 8 250. 6 213. 8 175. 5 2,805. 3 出典: 平均値:1981年-2010年、極値:1951年-現在 人間史 [ ] 南鳥島への空襲(1943年8月31日)• 約20万年前() - して島となる。 (元年) - の船(の船という説もある)モーニングスター号が来訪し、マーカス島と命名する。 (12年) - の斉藤清左衛門が、初めて南鳥島を訪れたとなる。 (明治29年) - 小笠原諸島を拠点に、南洋探検と交易を行なっていたが到達し 、から46人が移住し、に「水谷」と命名する。 開拓の当初の目的はの捕獲との採取であり 、副産物としてやの製造も行なわれた。 のちにの製造が加わった。 南洋の楽園というイメージとは裏腹に、移住者は、、()、(水源に乏しいことからの)、物資不足に悩まされ続けることとなった。 (明治31年) - 「南鳥島」と命名され、東京府小笠原支庁に編入される。 (明治35年) - アメリカ人A・A・ローズヒルがアメリカ合衆国による領有権を主張して開拓を試みるが、それを察知したも軍艦を派遣し、先に上陸して牽制した(南鳥島事件)。 この事件の際、軍艦「」に同乗していたの技師が南鳥島の土を採取・分析。 分が30%程度であったことから、南鳥島がの国内産地として注目される。 (明治36年) - 2月、水谷が東京府に「鳥糞採取願」を提出。 3月に府より許可が降りる。 これにより鳥糞石()の採掘が本格化する。 最盛期には年間1000トンのグアノを採掘。 島の中央部において採掘され、現場から沿岸部へ敷設されたトロッコによって運搬されて貨物船で出荷された。 主な出荷先は東京の「全国肥料取次所」であった。 グアノ採掘に従事する労働者は60~70人をかぞえた。 大正初期の生産高は年間600トンであった。 この時期に南鳥島の事業の権利は水谷から「南鳥島合資会社」に移転。 (大正11年)- グアノ事業の権利が全国肥料株式会社に移転する。 グアノ採掘はその後も続いたが、によるグアノや肥料の価格急落、資源枯渇などから昭和初期までにグアノ事業は終了。 会社及び労働者は南鳥島から撤退した。 昭和初期 - 漁業を営む数世帯が暮らしていたという。 (8年) - 全島民が撤収し、になる。 (昭和10年) - がを開設する。 (昭和17年) - 中、中将麾下の(旗艦)により、南鳥島は東京府内で初めてを受ける(日本本土への初空襲は同年4月の)。 その後も1943年(昭和18年)など何度も空襲を受けた。 (昭和18年) - 施行(東京府廃止)。 (昭和20年) - 軍の一国であるによって占領される。 (昭和21年) - 連合軍総司令部がを指令し、日本の南鳥島へのが停止される。 (昭和22年) - 台風発生に伴うで被害を受けたため、アメリカ軍が撤退して無人島となる。 1951年(昭和26年) - 日本のがの委託を受け、南鳥島で業務を始める。 1952年(昭和27年) - によって、正式にに入る。 (昭和38年) - が完成する。 これを受け、南鳥島にが駐留し、日本の気象庁職員は撤収する。 (昭和43年) - され、に属する。 南鳥島航空派遣隊が編成される。 (平成5年) - 南鳥島ロランC局を管理していたが撤収し、が管理を引き継ぐ。 (平成14年) - によりが設置され、日本最東端の点となる。 (平成18年) - 接近により、気象観測所職員全員が一時島外避難。 (平成21年) - 環境省がに指定。 2009年(平成21年) - 南鳥島ロランC局(自体の)廃止に伴い海上保安庁職員が撤収。 (平成22年) - 南鳥島などの離島の保全を目的とした案が衆議院を全会一致で通過。 、参議院で全会一致で可決・成立し、一部規定を除き施行。 2011年(平成23年) - 南鳥島港湾保全管理所の仮庁舎完成。 (平成24年) - 研究チームにより、南鳥島付近の海底でが発見される。 翌年3月、の一部が高濃度であることが発見される。 生物 [ ] の一種が生息している。 日本国内ではこことにのみ生息が認められ、方面から流木などに乗って分布を広げたものと考えられている。 人体に有害なを持つが多数生息する。 島内の施設と交通 [ ] 太平洋における南鳥島の位置 施設 [ ] 一般市民の定住者はなく、飛行場施設を管理するの(約10名)や南鳥島気象観測所(約10名)、南鳥島港湾保全管理所(3名)の職員が交代で常駐する。 があり、の観測地でもある。 は気象庁の社団局JD1YAAがあり 、来島者の個人局が運用することもある。 かつては海上保安庁の社団局JD1YBJもあった。 往来・補給のために1,370 のがあり、島の一辺の方向に平行である。 島の南側に船のがあるが、浅いに阻まれて大型船は接岸できないため、大型船は沖合いに停泊し、そこから船積みの小型ボートで島に荷揚げを行っている。 このため、2010年度より泊地及び岸壁工事が行われており、2022年度に完成予定である。 の際に戦闘を想定して島を化していたため、その時代のやの残骸などが残る。 アメリカ軍による空襲はあったものの上陸・戦闘は起きなかった。 かつては、が電波航法施設を運用していた。 1993年に千葉ロランセンターが業務を引き継ぎ、213mのアンテナから1. 8の送信出力でロランパルスを発射していたが、ロランを使用する船舶が減少したため2009年12月1日午前に廃止された。 交通 [ ] 島に駐在する職員の交代などのためのが月に一度、海上自衛隊のC-130Rが週に一度、を経由して食料の補給や荷物の逓送のために飛来する。 海上自衛隊のや航空自衛隊のが利用されることもある。 交代の職員もこれらの飛行機を利用する。 が「」 に指定し、南鳥島の住所を記載してもは届かない。 これは各社も同様である。 所要時間はC-130がからの直行で約3時間半である。 海上自衛隊がまで運用していたでは、厚木基地から硫黄島を経由して約7時間かかり、絶海の孤島で周囲に緊急着陸が可能な飛行場が存在せず、何らかの理由で着陸ができないと帰路に燃料不足の懸念があることから、確実に着陸可能である状況でのみ運航を行っていた。 作家のが南鳥島に行きたいと要望し、補給船に乗って1日だけ上陸して、その際の状況を「南鳥島特別航路」に書いた。 希土類 [ ] 2012年6月28日、の加藤泰浩ら研究チームは当地付近の海底5600mにおいて、日本で消費する約230年分に相当する(レア・アース)を発見したと発表。 日本の排他的経済水域である南鳥島沖の海底の泥に、希土類の中でも特に希少で HV のなどに使われるが、国内消費量の約230年分あるという推定がなされた。 これにより、掘削技術を提供していると共同でからの泥の回収技術の開発を目指す。 2013年3月21日、と東京大学の研究チームは、深海底黒泥中には最高で中国鉱山の30倍超の高濃度希土類があることが判ったと発表。 今回の調査で、同大学の加藤泰浩は「230年分以上、数百年分埋蔵している可能性がある」と話している。 なお、陸上の希土類鉱山で問題になる放射性は深海底黒泥中には含まれていなかった。 世界の希土類の主な輸出国であるは、日本による2013年の当地域の希土類に関する報道について、「我が国を煽り立て、牽制(けんせい)することが目的だった可能性がある」とした。 社長の中村繁夫は、南鳥島の希土類採掘は経済合理性に欠けており、一連の報道は単なる牽制目的なのではないかと述べた。 は2013年度から3年間、南鳥島周辺の排他的経済水域内において、希土類を含む海底堆積物の分布状況を調査して評価を行い、商用化に向けた技術開発も行っている。 脚注 [ ] []• (日本語)• 国土地理院. 2015年11月12日閲覧。 日経新聞 2015年1月15日. 2015年9月21日閲覧。 気象庁. 2019年1月閲覧。 気象庁. 2019年1月閲覧。 坂根嘉弘、松山大学論集,28 4 ,127-154 2016-10-01• 2020年4月7日閲覧。 日テレNEWS24• : p. 2000年9月30日• (日本語) 郵便事業株式会社• 日刊工業新聞. 2012年7月2日. の2012年10月21日時点におけるアーカイブ。 2012年10月9日閲覧。 2013年4月10日. 2013年4月16日時点の [ ]よりアーカイブ。 2013年4月10日閲覧。 中村繁夫「 」• 参考文献 [ ]• 『南鳥島特別航路』 、1994年。 関連項目 [ ]• - 存在が確認できなかったにもかかわらず、日本国のとしてなどにも記載されていた架空の島。 仮に存在していたならば、南鳥島よりも東にある日本最東端の島だった。 - 施設を管理する厚木基地のサッカーチーム。 チーム名は島の英語名が由来。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - (東京都小笠原村)• - (2015年5月8日アーカイブ分)•

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