少年 時代 歌詞。 TNT

井上陽水「少年時代」歌詞の意味を知りたい: 僕の目線。君の目線。

少年 時代 歌詞

夏が過ぎ 風あざみ 誰のあこがれにさまよう 青空に残された 私の心は夏模様 夢が覚め 夜の中 長い冬が窓を閉じて 呼びかけたままで 夢はつまり 想い出のあとさき 夏まつり 宵かがり 胸のたかなりにあわせて 八月は夢花火 私の心は夏模様 これが一番の歌詞です。 メロディーを載せると、懐かしいような雰囲気ですが、歌詞だけを見るとなんだか意味が分かりにくいですよね。 想い出のあとさき…?宵かがり…? まず最初に出てくるのは「風あざみ」という言葉。 この言葉については、本人も意味がないことを語っています。 井上陽水の『少年時代』の歌詞に込めた意味とは 「夏が過ぎ 風あざみ」 から始まるこの曲は、夏の終わりによく流れる曲です。 この曲は夏休みの終わりに聞くから、新学期の憂鬱さを思い出す、という方もいるのではないでしょうか。 風あざみの意味から見る井上陽水の歌詞の作り方 「風あざみ」には明確な意味はありません。 SONGSで本人により、これが造語であることが語られ、ネットで話題になったことがありました。 「オニアザミ」という言葉のインスピレーションから生まれた言葉のようです。 他にも、「夏模様」「宵かがり」「夢花火」という言葉が出てきます。 井上陽水は、こういった言葉に意味はなくて「響きのよさで作った」ことを本人の口から語っているのです。 有名な歌手の中でも、歌詞の意味を重視せずに響きだけで作る人は多いですよね。 例えは椎名林檎の『丸の内サディスティック』もそうみたいですよ。 そのため難解で、いろいろな人に考察がなされていて逆に面白かったりします。 歌詞考察のし甲斐はあるかもしれませんね。 少年時代も、まさに考察のし甲斐がある歌詞です。 では1番の歌詞の考察をしていこうと思います。 敢えて、考察しない部分を残しますので、それぞれ考察してみて欲しいなと思います。 「夏が過ぎ 風あざみ」 夏はもう過ぎって、あざみも散って風に消えていった「誰のあこがれにさまよう」 時は過ぎるのに自分はここで立ち止まって、誰かにあこがれられたりしてるんだろうか。 それとも… 「青空に残された 私の心は夏模様」 こうして青空をひたすら見ている私の心は夏から抜け出せずに、立ち止まり続けているんだ。 「夢が覚め 夜の中」 青空から夜になると、人は眠るけど私は目が覚めてしまい 「長い冬が 窓を閉じて」 冬の長い夜の暗くなった窓を閉じて 「呼びかけたままで 夢はつまり思い出のあとさき」 だけど夏の鬼ごっこなんかして呼びかけた声が頭に残っている。 見ることのできる夢というのはつまり、思い出があるから見れるんだな… 「夏まつり 宵かがり」 夏祭りは青空とこの夜の間の宵の暮れそうなときだったな… 「胸のたかなりにあわせて 八月は夢花火」 胸がわけもなく高鳴るのに合わせて上がる八月の花火も、この夢の中に出てくるんだ 「私の心は夏模様」 まだ私は夏の思い出を夢で見ているんだ。 子供の頃の思い出を思い返して、 昼は青空を見ながら。 夜は夏祭りなどの夢を見ている自分を描いています。 こうした夢は想い出があるからこそ見ることが出来るものだな… としみじみ感じながら、 思い返すのはいつも夏。 思い返す自分は永い冬の中にいる。 私の考察では… 目が覚めて 夢のあと 長い影が夜にのびて 星屑の空へ 夢はつまり 想い出のあとさき 夏が過ぎ 風あざみ 誰のあこがれにさまよう 八月は夢花火 私の心は夏模様 この部分はぜひそれぞれ考察してみてください。 面白いですよ。 少年時代の概要をこちらに書いておきますね。 Wikipediaに面白いエピソードがありました。 『少年時代』の概要 1990年9月21日にリリースされた通算29枚目のシングル。 作詞は井上陽水 作曲・編曲は井上陽水と平井夏美。 当初、荻野目洋子のシングル『ギャラリー』のB面に使用される予定だった曲で、B面にしては良い出来だったのでシングル化されたそうです。 出典: まとめ 『少年時代』の歌詞考察をしてきましたがいかがでしたか? 「少年時代」というワードを挟まないまま、多くを語らなくてもその情景を思い起こさせる井上陽水って やっぱりすごいなと思います。 夏の終わりの歌か、と思いきや「冬」というワードも出てくる。 想い出を想起しながらも、夏の懐かしい時代を夢に見てノスタルジックになっている感じが十分伝わりますね。 メロディーに乗せると、その情景はもっと色濃くなるような感じもします。 これがプロだな… 皆さんも、井上陽水の歌詞考察してみてはいかがでしょうか。 この歌のこの歌詞の意味考察してほしい、というリクエストもお待ちしています。 良ければコメント欄に書き込んでいってください。

次の

少年時代 歌詞 ほたる日和 ※ newsletters.oist.jp

少年 時代 歌詞

井上陽水 最大のヒット曲『少年時代』 1990年9月にリリースされた井上陽水の『少年時代』は、自身の最大のヒット曲であり、代表曲の一つに挙げられている。 意外なことに、発売当初はオリコンの週間シングルチャートでも最高20位程度であったが、1991年にソニーのハンディカムCCD-TR105でCM曲に採用されたことにより、最高4位まで上り詰めた。 そんな『少年時代』を大ヒット曲に導いたのには、井上陽水が作り出した造語が寄与しているかもしれない。 …そもそもこの曲に造語なんてものが存在したことは、あなたはご存じだろうか? 実は「風あざみ」「夏模様」「宵かがり」「夢花火」などの言葉は井上陽水が独自に作った造語である。 井上陽水がインタビューで「響きのよさで作った言葉で、意味ないんだよ。 」と答えていることからも事実である。 しかし、本当に響きのよさで作られた言葉なのだろうか?少なくとも井上陽水はその言葉に意味を含ませているはずだ。 このことを出発点に歌詞を解釈し、これら造語の意味を追求していく。 実際にアザミの開花期は4月~7月であり、この曲の背景と一致している。 しかし、この曲では具体的な植物としてのアザミを示しているのではないのだ。 アザミの花言葉は、「独立」「報復」「厳格」「触れないで」とネガティブなイメージで語られ、孤独を感じさせる。 夏が過ぎさった少年時代の虚無感というものを「風あざみ」という言葉で井上陽水は表現している。 「青空に残された私の心は夏模様」の歌詞も夏休みが終わったあとのあの虚しい感情を表している。 子供のころの夏の思い出は大人になっても楽しい思い出として記憶される。 青空という記憶装置に子供のころの楽しい夏の思い出 =夏模様 を残している。 このように、井上陽水は造語を使って歌いやすくかつ記憶に残りやすい言葉を用いているのだ。 「夏まつり」は夏祭りという解釈で間違いない。 では、「宵かがり」の意味はというと、宵とかがりで分解して考えると分かりやすい。 かがりとは、照明のために燃す火、つまりかがり火のことを指している。 これらから分かることは、夏まつりと宵かがりが並列に置かれていることからも、夏まつりの行われる前日の高揚感を宵とかがりを組み合わせることによって作り出しているということだ。 そして、「八月は夢花火」である。 夢花火もおそらく井上陽水の造語であろう。 しかし、これまでの造語とは異なり解釈は容易である。 夢のような八月の楽しかった思い出を花火の儚さにかけている。 簡単に言うと、夢って想い出のあとさきなんだよということだ。 しかし、あとさきという言葉の意味がよく分からなければ、ここで井上陽水が言っていることの解釈は不可能だろう。 このことから「夢はつまり想い出のあとさき」の意味内容が分かってくるはずだ。 井上陽水は歌詞上で夢とは、思い出の延長線上にあるものと考えており、夢は想い出の一つとしている。 井上陽水が、なぜこのような造語を用いたのかということに関して私なりの見解を明らかにしたい。 私は、造語を用いることによって聴き手側に想像の余地を与えていると考えている。 聴き手側の少年時代の楽しかった日々を想像させるような言葉でもあるのだ。 『少年時代』を聴ききながらみなさん自身がこの言葉の意味を解釈し、余韻深めてみてはどうだろうか。

次の

井上陽水が『少年時代』の歌詞に込めた意味とは?風あざみや夢花火って何?

少年 時代 歌詞

【文:郭家穎】 〈十個救火的少年〉 作詞:潘源良 唉呀呀唉呀呀呀 唉呀呀唉呀呀呀 唉呀呀唉呀呀呀 唉呀呀唉呀呀呀 在某午夜火警鐘聲響遍 城裡志願灌救部隊發現 站立在橋邊 十個決定去救火的少年 其中一位想起他少鍛鍊 實在是危險 報了名便算 另有別個勇敢的成員 為了要共愛侶一起更甜 靜悄靜悄 便決定轉身竄 又有為了母親的勸勉 在這社會最怕走得太前 罷了罷了 便歸家往後轉 十個決定去救火的少年 來到這段落 祗得七勇士 集合在橋邊 為了決定去救火的主見 其中三位竟終於反了臉 謾罵著離開 這生不願見 尚有共四個穩健成員 又有個願說郤不肯向前 在理論裡 沒法滅火跟煙 被撇下了這三位成員 沒法去令這猛火不再燃 瞬息之間 葬身於這巨變 在這夜這猛火像燎原 大眾議論到這三位少年 就似在怨 用處沒有一點 在這夜這猛火像燎原 大眾議論到這三位少年 亂說亂說 愈說祗有愈遠 十減一得九 九減一得八 八減一得七 七減一得六 六減一得五 五減一得四 四減一得三 三減一得二 〈十個救火的少年〉由達明一派主唱,發行於 1990 年《神經》專輯。 歷年在不同平台上備受討論及引用,論者常將之與六四事件扣連,說潘源良「以隱喻方式寫六四」,將之奉為「八九六四十歌曲」。 然而,這只是時代賦予〈十個救火的少年〉的意義,並非詞人的本意,以下先釐清〈十個救火的少年〉與六四的關係,再探其內容的一二。 這首歌在諷刺人性弱點上是無從否定,而有否針對性則有待商榷。 黃志華在 2006 年的網誌中提及,歌中反映「煩惱皆因強出頭」等負面的民族性,雖說「讓人想到六四事件前後的許許多多現實故事與人物」,但沒有指出歌曲的針對性,只表示歌詞令人產生聯想。 但在 2009 年的訪問中,黃志華明言「這唱片(達明一派《神經》)寫得較含蓄,也因為在事件後半年才出版,當中有更多的反思。 例如〈十個救火的少年〉,就寫到民運人士的潰散。 」直接把歌曲內容與六四事件相連接,而在同一訪問中,潘國靈亦持相同的看法,認為對於六四事件,專輯《神經》是以「抽象隱晦」的方法表達。 歌曲流傳下來,供大眾所聽,而時代的人當然會根據自己當前感覺,把情感投射在歌詞上,滿足自我期許,沒有對錯可言,只是偶然探索詞人的原意也無不可。 在 2013 年 6 月的電台節目〈音樂從呢道開始〉中,潘源良憶述,雖然確實創作原意已記不清楚,但此歌在六四事件發生前已開始構思,只因修訂、灌錄需時,才在六四後推出市場。 一開始,是基於節奏與歌詞長度為考量,再決定以十個少年的寓言故事作為內容,而深沉主題是潘源良的一貫風格,但對於針對特定事件,詞人更認為歌曲是敘述整個社會的氣氛,甚至反問主持「其實反映六四哪部分?」。 創作原意本來難以推敲,甚至詞人自己也難以說清,但我們亦能根據詞人的說法,排除一些可能性。 歌詞內容上,以嘉年華式的輕快節奏,訴說一個現實的寓言故事,反映人間百態及冷感。 歌詞中的少年對於火災,大多採隔岸觀火的態度,第二節,十人「站立在橋邊」,第六段餘下七人,仍「集合在橋邊」,第八節只有四人「又有個願說郤不肯向前」,直至徘徊不前。 人總離不開既有的安全界限,準備離開之時,就馬上忘了自己因聽到火警鐘聲,「志願」救火的初衷,趕忙回到情人、家人的身邊,不願冒險,而詞中各人的反應是每況愈下的。 第一個「報了名」,算是精神上支持,第二個「靜悄」地離開,也算有慚愧之心,不敢大搖大擺地離開,此後的轉身就走、以吵架作為掩飾,所謂的「穩健成員」也是紙上談兵,沒有實際行動,最後大眾甚至「在怨」葬身火海的三人「用處沒有一點」?歌詞呈現「等待」的含意,一眾人在橋邊等,沒有人前行,與六四向前推進的意識大相逕庭,十個人在等,然後慢慢離開,餘下的人,也不知道所等的是甚麼,只是苦苦的等待,然後被吞噬,面對這樣的社會,寧願茍且活下去,還是乾脆化身塵土? 星火燎原,〈十個救火的少年〉是基於人為因素而釀成的後果,而不是意外。 童謠的內容是有關九個印地安男孩,相繼因無妄之災死亡,最後一個男孩,不能承受來去一人的孤獨而懸樑自盡。 而小說中的角色與童謠所敘述一樣,接連死去,有預言的作用。 〈十個救火的少年〉既以此寓言包裝,不難發現詞人認為社會人情冷漠,會招致燎原性的惡果,少年在猛火當前,相互展示風度,沒有人願意先行,生怕先行者死,而最後三少年被大火吞噬後,眾說紛紜,無人同情,反而只管怪責,以事後孔明的姿態指指點點,詞中雖然沒有直接指出,但也明白「三減一得二」之後會是二減一得零,而童謠的末句「一個也不剩」,補足了歌詞的含意。 這首歌的寄寓大概是,如果大家仍是大難臨頭各自飛,即使你比誰都冷漠無情,成為了社會上最後站立的人,但無法生存下去,因為你親身殺害了社會,沒有相對的人,其實你甚麼也不是。 附錄: 《十個小黑人》的童謠: 十個印地安小男孩,為了吃飯去奔走;噎死一個沒法救,十個只剩九。 九個印地安小男孩,深夜不寐真困乏;倒頭一睡睡死啦,九個只剩八。 八個印地安小男孩,德文城裡去獵奇;丟下一個命歸西,八個只剩七。 七個印地安小男孩,伐樹砍枝不順手;斧劈兩半一命休,七個只剩六。 六個印地安小男孩,玩弄蜂房惹蜂怒;飛來一蟄命嗚呼,六個只剩五。 五個印地安小男孩,惹是生非打官司;官司纏身直到死,五個只剩四。 三個印地安小男孩,動物園裡遭禍殃;狗熊突然從天降,三個只剩兩。 兩個印地安小男孩,太陽底下長歎息;曬死烤死悲戚戚,兩個只剩一。 一個印地安小男孩,歸去來兮只一人;懸樑自盡了此生, 一個也不剩。

次の