三島 由紀夫 思想。 三島由紀夫が警戒したもの。それはまさしく安倍晋三的な「言葉の軽さ」だった! |BEST TiMES(ベストタイムズ)

三島由紀夫の本当の目的はこれだった! ―歴史の真実は半世紀かかる。

三島 由紀夫 思想

: 日付 (昭和45年) 午前10時58分頃 — 午後0時20分頃 概要 、ほかで成る民兵組織「」のメンバー5名が市ヶ谷駐屯地内のを訪問し、総監を拘束。 幕僚らを斬りつけ、三島がバルコニーで自衛官に演説。 その後総監室で三島と森田が割腹自殺。 武器 、、 死亡者 2人(三島由紀夫、森田必勝) 負傷者 8人(幕僚、自衛官) 被害者 東部方面総監、幕僚、自衛官 犯人 メンバー5人(三島由紀夫、森田必勝、、、) 対処 4年の判決(、等処罰に関する法律違反、、、) 三島事件(みしまじけん)とは、(昭和45年)に、・が、のための決起()を呼びかけた後にをした事件である。 三島が隊長を務める「」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって 楯の会事件(たてのかいじけん)とも呼ばれる。 この事件は日本社会に大きな衝撃をもたらしただけではなく、日本国外でも速報ニュースとなり、国際的な名声を持つ作家の起こした異例な行動に一様に驚きを示した。 舞台となった市ヶ谷駐屯地。 事件当時の看板は墨文字の書体で「陸上自衛隊市ヶ谷駐とん地」となっていた。 渦中となった東部方面総監部は1994年にへ移駐している。 1970年(昭和45年)11月25日の午前10時58分頃、(45歳)はのメンバー(25歳)、(22歳)、(22歳)、(23歳)の4名と共に、1番地(現・市谷本村町5-1)の正門(四谷門)を通過し、二階の総監室正面玄関に到着。 出迎えの沢本泰治に導かれ正面階段を昇った後、総監部業務室長の原勇(50歳)に案内され総監室に通された。 この訪問は21日に予約済で、業務室の中尾良一3等が警衛所に、「11時頃、三島由紀夫先生が車で到着しますのでフリーパスにしてください」と内線連絡していたため、門番の鈴木偣2等陸曹が助手席の三島と敬礼し合っただけで通過となった。 応接セットにいざなわれ、腰かけるように勧められた三島は、総監・(57歳)に、例会で表彰する「優秀な隊員」として森田ら4名を直立させたまま一人一人名前を呼んで紹介し、4名を同伴してきた理由を、「実は、今日このものたちを連れてきたのは、11月の体験入隊の際、山で負傷したものを犠牲的に下まで背負って降りてくれたので、今日は市ヶ谷会館の例会で表彰しようと思い、一目総監にお目にかけたいと考えて連れて参りました。 今日は例会があるので正装で参りました」と説明した。 総監が、「本物ですか」「そのようなをさげてに咎められませんか」と尋ねたのに対して三島は、「この軍刀は、関の孫六を軍刀づくりに直したものです。 をごらんになりますか」と言って、「関兼元」と記された鑑定書を見せた。 三島は刀を抜いて見せ、油を拭うためのハンカチを「小賀、ハンカチ」と言って同人に要求したが、その言葉はあらかじめ決めてあった行動開始の合図であった。 しかし総監が、「ではどうかな」と言いながら執務机の方に向かうという予想外の動きをしたため、目的を見失った小賀は仕方なくそのまま三島に近づいて日本手拭を渡した。 手ごろな紙を見つけられなかった総監はソファの方に戻り、刀を見るため三島の横に座った。 三島は日本手拭で刀身を拭いてから、刀を総監に手渡した。 を見た総監は、「いい刀ですね、やはり三本杉ですね」とうなずき、これを三島に返して元の席に戻った。 この時、11時5分頃であった。 三島は刀を再び拭き、使った手拭を傍らに来ていた小賀に渡し、目線で指示しながら鳴りを「パチン」と響かせて刀をに納めた。 それを合図に、席に戻るふりをしていた小賀はすばやく総監の後ろにまわり、持っていた手拭で総監の口をふさぎ、つづいて小川、古賀が細引やロープで総監を椅子に縛りつけて拘束した。 古賀から別の日本手拭を渡された小賀が総監にを噛ませ、「さるぐつわは呼吸が止まるようにはしません」と断わり、をつきつけた。 総監は、訓練か何かで皆が「こんなに強くなりました」と笑い話にするのかと思い、「三島さん、冗談はやめなさい」と言うが、三島は刀を抜いたまま総監を真剣な顔つきで睨んでいたので、総監は只事ではないことに気づいた。 その間、森田は総監室正面入口と、室および幕僚副長室に通ずる出入口の3箇所(全てドア)に、机や椅子、植木鉢などでを構築した。 幕僚らと乱闘 [ ] お茶を出すタイミングを見計らっていた沢本泰治3佐が、総監室の物音に気づき、その報告を受けた原勇1佐が廊下に出て、正面入口の擦りガラスの窓(一片のセロハンテープが貼られ、少し透明に近づけてある)から室内を窺うと、益田総監の後ろに楯の会隊員たちが立っていた。 総監がマッサージでも受けているかのように見えたが、動きが不自然なため、中に入ろうとすると鍵が閉まっていた。 原1佐がドアに体当たりし、隙間が2、30センチできた。 室内から「来るな、来るな」と森田必勝が叫び声を挙げ、ドア下から要求書が差し出された。 それに目を通した原1佐らはすぐに行政副長・山崎皎陸将補(53歳)と防衛副長・吉松秀信1佐(50歳)に、「三島らが総監室を占拠し、総監を監禁した」と報告。 幕僚らにをかけ、沢本3佐の部下がに連絡した。 この時に三島は腰を落として刀を手元に引くようにし、大上段からは振り下ろさずに、刃先で撫で斬りにしていたという。 この乱闘で、ドアの取っ手のあたりに刀傷が残った。 時刻は11時20分頃であった。 彼ら5人を退散させている間に、さらに幕僚副長室側から、清野不二雄1佐(50歳)、高橋清2佐(43歳)、寺尾克美3佐(41歳)、水田栄二郎、菊地義文3曹、吉松秀信1佐、山崎皎陸将補の7人が次々と突入してきた。 副長の吉松1佐が、「何をするんだ。 話し合おうではないか」と言うが乱闘は続き、古賀浩靖は小テーブルや椅子を投げつけ、小川正洋はで応戦した。 森田もで応戦するが、逆に短刀をもぎ取られた。 三島はすかさず加勢し、森田を引きずり倒した寺尾3佐、高橋2佐に斬りつけた。 総監を見張っていた小賀に、清野1佐が灰皿を投げつけると、三島が斬りかかった。 清野1佐は、を投げて応戦するが躓いて転倒。 山崎陸将補も斬りつけられ、幕僚らは総監の安全も考え、一旦退散することにした。 この乱闘により自衛隊員8人が負傷したが、中でも最も重傷だったのは、右肘部、左掌背部切創による全治12週間の中村菫正2佐だった。 三島の刀を玩具だと思って左手でもぎ取ろうとしたため掌のを切った中村2佐は、左手のを失う後遺症が残った。 しかし中村2佐は、三島に対して「まったく恨みはありません」と語り、「三島さんは私を殺そうと思って斬ったのではないと思います。 相手を殺す気ならもっと思い切って斬るはずで、腕をやられた時は手心を感じました」と述懐している。 11時22分、東部方面総監室から指令室にが入り、11時25分には、公安第一課 が長室を臨時本部にして関係機関に連絡し 、120名の員を市ヶ谷駐屯地に向けて出動させた。 室外に退散した幕僚らは三島と話し合うため11時30分頃、廊下から総監室の窓ガラスを割った。 最初に顔を出した功刀松男1佐が額を切られた。 吉松1佐が窓ごしに三島を説得するが、三島は「これをのめば総監の命は助けてやる」と、最初に森田がドア下から廊下に差し出したものと同内容の要求書を、破れた窓ガラスから廊下に投げた。 要求書には主に (一)11時30分までに全市ヶ谷駐屯地のを本館前に集合せしめること。 (二)左記次第の演説を清聴すること。 (イ)三島の演説(の撒布) (ロ)参加学生の名乗り (ハ)楯の会の残余会員に対する三島の訓示 (三)楯の会残余会員(本事件とは無関係)を急遽市ヶ谷会館より召集、参列せしむること。 (四)11時30分より13時10分にいたる2時間の間、一切の攻撃妨害を行はざること。 一切の攻撃妨害が行はれざる限り、当方よりは一切攻撃せず。 (五)右条件が完全に遵守せられて2時間を経過したときは、総監の身柄は安全に引渡す。 その形式は、2名以上の護衛を当方より附し、拘束状態のまま(自決防止のため)、本館正面玄関に於て引渡す。 (六)右条件が守られず、あるいは守られざる惧れあるときは、三島は直ちに総監を殺害して自決する。 などと書かれてあった。 幕僚幹部らは三島の要求を受け入れることを決め、11時34分頃に吉松1佐が三島に、「自衛官を集めることにした」と告げた。 三島は「君は何者だ。 どんな権限があるのか」と質問し、吉松1佐が「防衛副長で現場の最高責任者である」と名乗ると、三島は少し安心した表情となり腕時計を見てから、「12時までに集めろ」と言った。 その間、三島は森田に命じ、益田総監にも要求書の書面を読み聞かせた。 手の痺れた益田総監は、細引を少し緩めてもらった。 総監は、何故こんなことをするのか、自衛隊や私が憎いのか、演説なら内容によっては私が代わりに話すなどと説得すると、三島は総監に檄文のような話をして、自衛隊も総監も憎いのではない、妨害しなければ殺さないと告げ、「きょうは自衛隊に最大の刺戟を与えて奮起を促すために来た」と言った。 なお、三島が総監室でを吸ったかどうかは不明であるが、「現場で煙草を吸うくらいの時間はあるだろう」と、他の荷物と一緒に、で貰った恩賜煙草もに入れるように前々日にメンバーに渡していたという。 11時40分、市ヶ谷駐屯地の部隊内に「業務に支障がないものは本館玄関前に集合して下さい」というマイク放送がなされ、その後も放送が繰り返された。 11時46分、警視庁は三島ら全員について逮捕を指令した。 駐屯地内には、、警務隊の白いジープが次々と猛スピードで入って来ていた。 この頃、すでにテレビやラジオも事件の第一報を伝えていた。 バルコニーで演説 [ ] 部隊内放送を聞いた自衛官約800から1000名が、続々と駆け足で本館正面玄関前の前庭に集まり出した。 中にはすでに食堂で昼食を食べ始め、それを中断して来た者もあった。 彼らの中では、「暴徒が乱入して、人が斬られた」「総監が人質に取られた」「が来たんじゃないか」「三島由紀夫もいるのか」などと情報が錯綜していた。 11時55分頃、に白手袋を着けた森田必勝と小川正洋が、「」を多数撒布し、要求項目を墨書きしたを総監室前上から垂らした。 自衛官2人がジャンプして垂れ幕を引きずり下そうとしたが、届かなかった。 前庭には、のを持った機動隊員や、新聞社やテレビなど報道陣の車も集まっていた。 なお当日、総監部から約50メートルしか離れていない市ヶ谷会館に例会に来ていた楯の会会員30名については、幕僚らは三島の要求を受け入れずに会館内に閉じ込める処置をし、警察の監視下に置かれて現場に召集させなかった。 不穏な状況を知って動揺する会員らと警察・自衛隊との間で小競り合いが起こり、で制止された。 日本刀が見えたのは一瞬のことだった。 三島の頭には、「 七生報國」(七たび生まれ変わっても、を滅ぼし、国に報いるの意)と書かれたの鉢巻が巻かれていた。 右背後には同じ鉢巻の森田が立ちし、正面を凝視していた。 「三島だ」「何だあれは」「ばかやろう」などと口々に声が上がる中、三島は集合した自衛官たちに向かい、白い手袋の拳を振り上げて絶叫しながら演説を始めた。 〈日本を守る〉ための〈健軍の本義〉に立ち返れというのを促す演説で、主旨は撒布された「檄」とほぼ同じ内容であった。 上空には、早くも異変を聞きつけたのが騒音を出し、何台も旋回していた。 おまえら、聞け。 静かにせい。 静かにせい。 話を聞け。 男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。 いいか。 それがだ、今、日本人がだ、ここでもって立ち上がらねば、自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。 諸君は永久にだね、ただになってしまうんだぞ。 (中略) おれは4年待ったんだ。 自衛隊が立ち上がる日を。 ……4年待ったんだ、……最後の30分に……待っているんだよ。 諸君はだろう。 武士ならばをどうして守るんだ。 どうして自分を否定する憲法のために、自分らを否定する憲法にぺこぺこするんだ。 これがある限り、諸君たちは永久に救われんのだぞ。 — 三島由紀夫、バルコニーにて 自衛官たちは一斉に、「聞こえねえぞ」「引っ込め」「下に降りてきてしゃべれ」「おまえなんかに何が解るんだ」「ばかやろう」と激しい怒号を飛ばした。 「われわれの仲間を傷つけたのは、どうした訳だ」とが飛ぶと、すかさず三島はそれに答えて、「抵抗したからだ」と凄まじい気迫でやり返した。 その場にいたK陸曹(原典でも匿名)は、うるさい野次に舌打ちし、「絶叫する三島由紀夫の訴えをちゃんと聞いてやりたい気がした」「ところどころ、話が野次のため聴取できない個所があるが、三島のいうことも一理あるのではないかと心情的に理解した」と後に語り、いったん号令をかけて集合させたなら、きちんと部隊別に整列して聴くべきだったのではないかとしている。 三島は、〈諸君の中に一人でもおれと一緒に起つ奴はいないのか〉と叫び、10秒ほど沈黙して待ったが、相変わらず自衛官らは、「気違い」「そんなのいるもんか」と罵声を浴びせた。 予想を越えた怒号の激しさやヘリコプターの騒音で、演説は予定時間よりもかなり少なく、わずか10分ほどで切り上げられた。 三島が演説を早めに切り上げたのは、機動隊が一階に突入したのを見たからだとも推測されている。 演説を終えた三島は、最後に森田と共にに向って、〈!〉を三唱した。 その時も、「ひきずり降ろせ」「銃で撃て」などの野次で、ほとんども聞き取れないほどだった。 この日、は100名ほどの留守部隊を残して、900名の精鋭部隊はに出かけて留守であった。 三島は、森田の情報で連隊長だけが留守だと勘違いしていた。 バルコニー前に集まっていた自衛官たちは通信、資材、補給などの、現職においてはどちらかといえば三島の想定した「武士」ではない隊員らであった。 三島はの精神性に少しでも近づくことに重きを置いて、を使用していなかった。 マイクやを使わずに、あくまでも雄叫びの肉声にこだわった。 三島はとの対談『対話・日本人論』(1966年)の中で、神風連が西洋文明に対抗するため、電線の下をくぐる時は白扇を頭に乗せたことや、彼らがあえて日本刀だけで戦った魂の意味を語っていた。 ちなみに、三島の演説をテレビで見ていた作家のは、もしも自分が母親だったら「(マイクを)その場に走って届けに行ってやりたかった」と語っていたという。 は、『』第8巻(1989年)で、当時の自衛官が演説を聴かなかったことについて、「三島由紀夫がを強調しながら自衛隊員に相手にされなかったのは自衛隊員も豊かな日本で主義の傾向になっていたからだろう」としている。 事前に三島の連絡を受け、当日朝、11時に市ヶ谷会館に来るように指定されていた記者・とNHK記者・は、楯の会会員・田中健一を介して三島の手紙と檄文、5人の写真などが入った封書を渡されていた。 それは万が一、警察から檄文が没収され、事件が隠蔽された時のことを惧れて託されたものだった。 徳岡はそれを靴下の内側に隠してバルコニー前まで走り、演説を聞いていた。 前庭に駆けつけたテレビ関係者などは、野次や騒音で演説はほとんど聞こえなかったと証言しているが、徳岡孝夫は、「聞く耳さえあれば聞こえた」「なぜ、もう少し心を静かにして聞かなかったのだろう」とし 、「自分たち記者らには演説の声は比較的よく聞こえており、テレビ関係者とは聴く耳が違うのだろう」と語っている。 なお、この演説の全容を録音できたのはだけだった。 マイクを木の枝に括り付けて、飛び交う罵声や報道ヘリコプターの騒音の中、〈それでも武士か〉と自衛官たちに向けて怒号を発する三島の声を良好に録音することに成功し、スクープとなったという。 文化放送報道部監修『スクープ音声が伝えた戦後ニッポン』(2005年、新潮社)の付属CDでこの演説の肉声を聴くことができる。 割腹自決へ [ ] 12時10分頃、森田と共にバルコニーから総監室に戻った三島は、誰に言うともなく、「20分くらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」とつぶやいた。 そして益田総監の前に立ち、「総監には、恨みはありません。 自衛隊を天皇にお返しするためです。 こうするより仕方なかったのです」と話しかけ、制服のボタンを外した。 三島は、小賀が総監に当てていた短刀を森田の手から受け取り、代わりに抜身の日本刀・関孫六を森田に渡した。 そして、総監から約3メートル離れた赤の上で上半身裸になった三島は、バルコニーに向かうように正座して短刀を両手に持ち 、森田に、「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思いとどまらせようとした。 そして、「うーん」という気合いを入れ、「ヤアッ」と両手で左脇腹に短刀を突き立て、右へ真一文字作法で切腹した。 左後方に立ったの森田は、次に自身の切腹を控えていたためか、尊敬する師へのためらいがあったのか、三島の頸部に二太刀を振り降ろしたが切断が半ばまでとなり、三島は静かに前の方に傾いた。 まだ三島が生きているのを見た小賀と古賀が、「森田さんもう一太刀」「とどめを」と声をかけ、森田は三太刀目を振り降ろした。 総監は、「やめなさい」「するな、とどめを刺すな」と叫んだ。 介錯がうまくいかなかった森田は、「浩ちゃん頼む」と刀を渡し、古賀が一太刀振るって頸部の皮一枚残すという古式に則って切断した。 最後に小賀が、三島の握っていた短刀で首の皮を胴体から切り離した。 その間小川は、三島らの自決が自衛官らに邪魔されないように正面入口付近で見張りをしていた。 続いて森田も上着を脱ぎ、三島の遺体と隣り合う位置に正座して切腹しながら、「まだまだ」「よし」と合図し、それを受けて、古賀が一太刀で介錯した。 その後、小賀、小川、古賀の3人は、三島、森田の両遺体を仰向けに直して制服をかけ、両人の首を並べた。 総監が「君たち、おまいりしたらどうか」「したらどうか」と声をかけた。 3人は総監の足のロープを外し、「三島先生の命令で、あなたを自衛官に引き渡すまで護衛します」と言った。 総監が、「私はあばれない。 手を縛ったまま人さまの前に出すのか」と言うと、3人は素直に総監の拘束を全て解いた。 三島と森田の首の前でし、黙って涙をこぼす3人を見た総監は、「もっと思いきり泣け…」と言い、「自分にも冥福を祈らせてくれ」と正座して瞑目合掌した。 12時20分過ぎ、総監室正面入口から小川と古賀が総監を両脇から支え、小賀が日本刀・関孫六を持って廊下に出て来た。 3人は総監を吉松1佐に引き渡し、日本刀も預け、その場で員にされた。 警察の温情からか3人にはかけられなかった。 群がる報道陣の待ち受ける正面玄関からパトカーで連行されて行く時、何人かの自衛官が3人の頭を殴ったため、警察官が「ばかやろう、何をするか」と一喝して制した。 12時23分、総監室内に入った署長が2名の死亡を確認した。 「君は三島由紀夫と親しいのだろ?すぐ行って説得してやめさせろ」と警備部長から指示を受けて、警務部参事官兼人事第一課長・が警視庁から現場に駆けつけたが、三島の自決までに間に合わなかった。 佐々は、遺体と対面しようと総監室に入った時の様子を「足元のがジュクッと音を立てた。 みると血の海。 赤絨毯だから見分けがつかなかったのだ。 いまもあの不気味な感触を覚えている」と述懐している。 人質となった総監はその後、「被告たちに憎いという気持ちは当時からなかった」とし、「国を思い、自衛隊を思い、あれほどのことをやった純粋な国を思う心は、個人としては買ってあげたい。 憎いという気持ちがないのは、純粋な気持ちを持っておられたからと思う」と語った。 現場の押収品の中に、が書かれたが6枚あった。 三島が2句、森田が1句、残りのメンバーも1句ずつあった。 となり となりても 国のため ますらをぶりも のまにまに — 古賀浩靖 三島由紀夫(本名・平岡公威)は享年45。 森田必勝は享年25、自分の名を「 まさかつ」でなく、「 ひっしょう」と呼ぶことを好んだという。 当日の余波 [ ] 市ヶ谷会館の中で、警察官や機動隊の監視下に置かれていた楯の会会員30人中、森田と同じ班の者たちは事件を知って動揺し、「(現場に)行かせろ」と激しく抵抗して3名がで逮捕された。 会館に残された会員たちは、を求められ、整列して「」を斉唱した後、四谷署に連れて行かれた。 12時30分過ぎ、総監部内に設けられた記者会見場では、開口一番、2人が自決した模様と伝える警視庁の係官と、矢継ぎ早に生死を質問する新聞記者たちとの興奮したやり取りが交わされ始めた。 2人の首がはねられたことを初めて知った記者たちの間からは、うめき声が洩れ、どよめきが広がった。 吉松1佐も記者たちの前で一部始終を説明した。 切腹、介錯という信じがたい状況を記者たちは何度も確認し、「つまり首と胴が離れたんですか」と1人が大声で叫ぶように質問すると、吉松1佐はそのままオウム返しで肯定した。 もはや聞くべきことがなくなった記者たちはそれぞれ足早に外へ散っていった。 多方面で活躍し、候補としても知られていた著名作家のクーデター呼びかけと割腹自決の衝撃のニュースは、国内外のテレビ・ラジオで一斉に速報で流され、街ではが配られた。 番組は急遽、特別番組に変更され、文化人など識者の電話による討論なども行われた。 市ヶ谷駐屯地の前には、9つあまりのが続々と押し寄せた。 12時30分から防衛庁で記者会見を開いたは、事件を「非常に遺憾な事態」とし、三島の行動を「迷惑千万」「民主的秩序を破壊する」ものと批判した。 官邸でニュースを知ったも記者団に囲まれ、「気が狂ったとしか思えない。 常軌を逸している」とコメントした。 両人はそれまで、三島の自衛隊体験入隊を自衛隊PRの好材料として好意的に見ていたが、事件後は政治家としての立場で発言した。 なお、佐藤首相はこの日の日記に「(事件を起こした)この連中は楯の会三島由紀夫その他ときいて驚くのみ。 気が狂ったとしか考へられぬ。 詳報を受けて愈々判らぬ事ばかり。 (中略)立派な死に方だが、場所と方法は許されぬ。 惜しい人だが、乱暴はなんといっても許されぬ」と困惑している旨を書き残している。 一方、中曽根は後に『』で「私は、これは美学上の事件でも芸術的な殉教でもなく、時代への憤死であり、思想上の諌死だったのだろうと思った。 が、にあるように『操守は厳命なるべく、しかも激烈なるべからず』であり、個人的な感慨にふけっているときではなかった」としている。 釈放された益田総監が自衛官たちの前に姿を現し、「ご迷惑かけたが私はこの通り元気だ。 心配しないでほしい」と左手を高く振って挨拶すると、「いーぞ、いーぞ」「よーし、がんばった」などの声援が上がり、拍手が湧いた。 その場で取材していたの記者は、その光景になんとも我慢できないものを感じたとし、その「軍隊」らしくない集団の態度への違和感を新聞コラムに綴った。 三島の自決に対する追悼ではもちろんない。 に挑戦した三島らの行動を非難し、平和国家の軍隊に徹するという決意の拍手でもない。 残された隊員へ、マイクで指示が出た。 「みなさんは勤務に服してください。 どうぞ、そうしてください」と哀願調、隊員はいっこうに立ち去りそうもない。 (中略)はからずも露呈した自衛隊のサラリーマン的結束と無秩序状態。 — 東京新聞コラム(昭和45年11月25日) テレビの正午のニュースで息子の事件を知り注視していた三島の父・は、速報のテロップで流れた「介錯」「死亡」の字を「介抱」と見間違え、なぜ介抱されたのに死んだのだろうと医者を恨み動転していた。 そのうち、外出先で事態を知った母・や妻・が緊急帰宅し、一家は「青天の霹靂」の混乱状態となった。 13時20分頃、三島と親しいが総監部に駆けつけたが、警察の現場検証中で総監室には近づけなかった。 呆然と憔悴した面持ちの川端は報道陣に囲まれ、「ただ驚くばかりです。 (当時議員)も現場を訪れたが、入室はしなかったという。 14時、警視庁は牛込署内に、「楯の会自衛隊侵入不法監禁割腹自殺事件特別捜査本部」を設置した。 自衛隊の最高幹部の1人は、「三島の自決を知ったあとの隊員たちの反応はガラリと変った。 だれもが、ことばを濁し、複雑な表情でおし黙ったまま、放心したようであった。 まさか自決するとは思っていなかったのだろう。 その衝撃は、大きいようだ」とこの日の感想を結んだ。 演説を見ていたK 陸曹も、「割腹自決と聞いて、その場に1時間ほど我を忘れて立ち尽くした」と言葉少なに語り、幕僚3佐のTも、「まさか、死ぬとは! すごいショックだ。 自分もずっと演説を聞いていたが、若い隊員の野次でほとんど聞き取れなかった。 死を賭けた言葉なら静かに聞いてやればよかった」という談話を述べた。 17時15分、三島と森田の首は検視のため一つずつビニール袋に入れられ、胴体はに収められて、市ヶ谷駐屯地を出て牛込署に移送され、遺体は署内に安置された。 署にはたち右翼団体が弔問に訪れ、仮の祭壇が設けられたが、すぐに撤去された。 22時過ぎ、警視庁は三島邸や森田のアパートの家宅捜索を開始し、三島の家は、翌日の午前4時頃まで捜索された。 三島邸の閉ざされた門の前の路上には、多くの報道陣が密集し、その後方には、三島ファンの女学生が肩を抱き合い泣く姿が見られ、詰襟の学生服を着た民族派学生の一団が直立不動の姿勢で頬を濡らし、嗚咽をこらえて長い時間立っていたという。 検視・物証・逮捕容疑 [ ] 翌日の11月26日の午前11時20分から13時25分まで、室にて、三島の遺体を斎藤銀次郎教授、森田の遺体を船尾忠孝教授が解剖執刀した。 その検視によると、2人の死因は、「頸部割創による離断」で、以下の所見となった。 三島由紀夫: 頸部は3回の切りかけており、7センチ、6センチ、4センチ、3センチの切り口がある。 右肩に刀がはずれたと見られる11. 5センチの切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ。 腹部はヘソを中心に右へ5. 5センチ、左へ8. 5センチの切創、深さ4センチ。 左はに達し、左から右へ真一文字。 身長163センチ。 45歳だが30歳代の発達した若々しい筋肉。 脳の重さ1440グラム。 血液A型。 森田必勝: 第3頸椎と第4頸椎の中間を一刀のもとに切り落としている。 腹部の傷は左から右に水平、ヘソの左7センチ、深さ4センチの傷、そこから右へ5. 4センチの浅い切創、ヘソの右5センチに切創。 右肩に0. 5センチの小さな傷。 身長167センチ。 若いきれいな体。 — 解剖所見(昭和45年11月26日) 三島は、小腸が50センチほど外に出るほどの堂々とした切腹だったという。 また一太刀が顎に当たりが砕け、を噛み切ろうとしていたとされる。 介錯に使われた日本刀・関孫六は、警察の検分によると、介錯の衝撃で真中より先がS字型に曲がっていた。 また、刀身が抜けないように目釘の両端を潰してあるのを、関孫六の贈り主であるの大盛堂書店社長・が牛込警察署で確認した。 刀剣鑑定の専門家・渡部真吾樹は、この刀の刀紋は「三本杉」でなく、「互の目乱れ」だとし、刀の地もかなり柔らかく、関孫六の鍛え方とは違うと鑑定した。 他にも、この刀が本物の関孫六ではないとする専門家の断言や、刀の出所調査もあり、三島が贋物をつかまされていたという説は根強くある。 小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の所持品には、三島が3名に渡した「命令書」と現金3万円ずつ(費用)、各自1本ずつ、などがあった。 小賀への命令書には主に、以下の文言が書かれてあった。 君の任務は同志古賀浩靖君とともに人質を護送し、これを安全に引き渡したるのち、いさぎよく縛に就き、楯の会の精神を堂々と法廷において陳述することである。 今回の事件は楯の会隊長たる三島が計画、立案、命令し、学生長森田必勝が参画したるものである。 三島の自刃は隊長としての責任上当然のことなるも、森田必勝の自刃は自ら進んで楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範をたれて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭かしむる凛烈の行為である。 三島はともあれ森田の精神を後世に向かつて恢弘せよ。 — 三島由紀夫「命令書」 小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の3名は、、、、、、の6つので、11月27日にされ 、その後12月17日に、嘱託殺人、傷害、監禁致傷、暴力行為、の5つの罪でされた。 事件後 [ ] 各所の反響・論調 [ ] 自衛隊・防衛庁 [ ] 事件翌日11月26日の総監室の前には、誰がたむけたのかの花束がそっと置かれていたが、ものの1時間とたたぬうちに幹部の手によって片づけられた。 その後、東京および近郊に在隊する陸上自衛隊内で行われたアンケート(無差別抽出1000名)によると、大部分の隊員が、「檄の考え方に共鳴する」という答であった。 一部には、「大いに共鳴した」という答もあり、をあわてさせたという。 三島と対談したことのある長・は、三島の「檄」を、「公共の秩序を守るための治安出動を公共の秩序を破壊するためのクーデターに転化する不逞の思想であり、これほど自衛隊を侮辱する考え方はない」と批判した。 その後、三島と楯の会が体験入隊していたには、第2中隊隊舎前に追悼碑がひっそりと建立された。 碑には、「 深き夜に 暁告ぐる くたかけの 若きを率てぞ 越ゆる峯々 公威書」という三島の句が刻まれた。 警察が、三島と知り合った自衛隊の若い幹部にすると、三島に共鳴し真剣に日本の防衛問題を考えている者が予想以上に多かったという。 楯の会にゲリラ戦略の講義などをしていた1佐も事情聴取されたが、警察当局は事件を単なる暴徒乱入事件という形で処理する方針となっていたため、山本1佐は法廷までは呼ばれなかった。 12月22日、東部方面総監・が事件の全責任をとって辞職した。 この際、益田総監と防衛庁長官が談判したが、その時の記録テープには、中曽根が「俺には将来がある。 総監は位人臣を極めたのだから全責任を取れば一件落着だ」「東部方面総監の俸給を2号俸上げるから…」(これは退職金計算の基礎額を増やし、退職金を増やすという意味)と打診していたくだりがあるとされる。 三島事件の被害者の1人である寺尾克美3佐は、このテープを聞いて「腸が煮えくり」かえり、それまで尊敬していた中曽根を、「こういう男かと嘆かわしく思った」としている。 事件から3年後の1973年(昭和48年)秋から、自衛官用の文に「日本国憲法及び法令を遵守し」という文言を防衛庁が挿入した。 この文言は、それまで(他)の宣誓文だけに書かれ、自衛官の宣誓文に「憲法遵守」を入れるのは躊躇されていたが(憲法第9条を素読すれば自衛隊の存在が違憲と捉えることが可能なため )、三島事件で自衛隊が全くの安全人畜無害な組織であることが明瞭となったため(誰1人としてこの文言を入れても将校が反抗しないと判断したため )、挿入することになった。 新聞社説・海外 [ ] 事件に対する主要な新聞各紙の論調は、、、、がほぼ一様に、当日の防衛庁長官や首相のコメントを踏襲するような論調で、三島の行動を、狂気の暴走と捉え、反的な行動は断じて許されないという主旨のものであった。 アメリカのの社説は、「三島の自決を日本軍国主義復活のきざしとみなすことはむずかしい。 それにもかかわらず、三島自決の意味はよく検討するに値するほど重大である」と論じ 、イギリスのは、「たとえ気違いだろうと正気だろうと、彼(三島)の示した手本は、日本の少数の若者たちにとって、現在、将来を通じ、強い影響力を持つことになるだろう」とした。 のは、「精神の純粋さに殉じてハラキリを行う」と報じた。 のレクスプレスは、「憂うべき日本の現状を昔に戻せと唱えて割腹した」と報じ、は、「三島の自刃は偽善を告発するためのものである」と論じた。 のフィナンシャル・レビューは、「三島の死を、日本に多いやと結びつけるのは、単に三島に対する誤解のみならず、近代日本に対する誤解でもある」として、「伝統的文化と近代社会の間にある構造的な相剋の中に、真の美を追求し、死にまで至った彼のは、彼自身の作品のように完璧な域にまで構成されている」と論じた。 からは、「復活の恐れ」、からは「を刺激することが心配」、からは「知名人の行動に驚き」といった打電だった。 は、「三島は高度の知性に恵まれていた。 その三島ともあろう人が、大衆の心を変えようと試みても無駄だということを認識していなかったのだろうか」と問いかけ、以下のように語った。 かつて大衆の意識変革に成功した人はひとりもいない。 大王も、も、も、も、も、も、その他ぼくの知るかぎりだれひとりとして、それには成功しなかった。 人類の大多数は惰眠を貪っている。 あらゆる歴史を通じて眠ってきたし、おそらくが人類を全滅させるときにもまだ眠ったままだろう。 (中略)彼らを目ざめさせることはできない。 大衆にむかって、知的に、平和的に、美しく生きよと命じても、無駄に終るだけだ。 — ヘンリー・ミラー「特別寄稿」 は、三島を「日本人のうちでは最も重要な人物」とし、それまで自民党の幹部たちが私的な場所でだけ意見交換していた国防問題・政治論争のすべてを、敢然として「公開の席に持ちだした」ことで注目に値するとして、なぜ、それが今まで日本の職業政治家たちに出来なかったのかと指摘した。 (中略)外国人は日本で自由な選挙が行なわれ、それに過剰気味なくらいおびただしい世論調査と言論の自由があるという事実こそが、日本に民主主義のあることを物語っていると頭から信じこんでいる。 三島は日本における基本的な政治論争に現実性が欠けていること、ならびに日本の民主主義原則の特殊性について、注意を喚起したのである。 — ヘンリー・スコット=ストークス「ミシマは偉大だったか」 は、新聞記者らから「三島の行動が日本の軍国主義復活と関係あるか」と問われ、直感的に「ノー」と答えた理由を以下のようにコメントした。 たぶん、いつの日か、国が平和とか、とか、そんなものすべてに飽きあきしたとき、彼は新しい意識のと目されるだろう。 いまになってわれわれは、彼が何をしようと志していたかを、きわめて早くからわれわれに告げていて、それを成し遂げたことを知ることができる。 三島の生涯はある意味で的生涯だった。 — エドワード・G・サイデンステッカー「時事評論」 は、「私は佐藤首相が三島の行動を狂気と言ったのが間違いであることを知っている。 それ(三島の行動)は論理的に構成された不可避のものであった。 (中略)世界は大作家を失ったのである」と語った。 新左翼 [ ] 三島と討論会を行なったことのあるは、キャンパスで「三島由紀夫追悼」の垂れ幕で弔意を示し、などでも、「悼 三島由紀夫割腹」の垂れ幕で追悼した。 京都大学指揮者のは、「われわれの思想的敗退です。 あそこまでからだを張れる人間をわれわれは一人も持っていなかった。 動転したね。 新左翼の側にも何人もの"三島"を作られねばならん」とコメントした。 死ねば何かができるというものではないですから。 でも死ぬことを避けるというのではありませんよ。 われわれが死ぬときは、殺されて死ぬのです」と語った。 作家・文化人 [ ] 三島と近しかった友人や同じ思想の系譜に連なる作家や評論家らは、三島事件の意味を「諌死」と捉えた。 三島と異なる思想傾向の作家らも、三島が思想を超え、公平な審美眼で文芸批評をしていたことに対する畏敬の念から、現場でののコメントのように、その稀有な才能の喪失を純粋に惜しむ声が多かった。 その一方、あくまでも思想的反対や反天皇の姿勢から、三島の行動を「錯誤の愚行」と批判するなどの評論家や 、軍国主義化を警戒するのような、当時の「戦後文化人」の一般的意見を反映するものも多かった。 は、三島の「薄よごれた模倣者」が出ることを危惧し、三島の死は文学論のカテゴリーに留めるべきものという主旨で、政治的な意味を持たせることに反対し、野次った自衛官たちの大衆感覚の方を正常で健康なものとした。 は、「佐藤も中曽根も、こんどの『楯の会』を前髪でつかんだ」とし、三島事件を「狂気」化することにより、逆に自衛隊が合理的理性的なもの、市民的常識に違反しない非暴力集団かのような印象を社会に喧伝する機会として政治家が利用したと批判した。 は、「右翼といふやうな党派性は、あの人(三島)の精神には全く関係がないのに、事件がさういふ言葉を誘ふ。 事件が事故並みに物的に見られるから、これに冠せる言葉も物的に扱はれる」とし、事件について様々な「講釈」を垂れ批判する人間には、「事件を抽象的事件として感受し直知する事」が容易でないとした。 実は皆知らず知らずのうちに事件を事故並みに物的に扱つてゐるといふ事があると思ふ。 事件が、わが国の歴史とかとかいふ問題に深く関係してゐる事は言ふまでもないが、それにしたつて、この事件の象徴性とは、この文学者の自分だけが責任を背負ひ込んだ個性的な歴史経験の創り出したものだ。 さうでなければ、どうして確かに他人であり、でもある私を動かす力が、それに備つてゐるだらうか。 — 小林秀雄「感想」 は、作家としての地位も家族にも恵まれ、生きていれば、いずれを受賞する可能性が多いにあった三島が、その全てを押し切って行動した意義を、「〈昭和元禄〉への死を以てする警告」とし 、も追悼集会で、三島が、自衛隊を本来の「名誉ある国軍」に帰れと呼びかけ、「死をもって反省を促した」諌死だとした。 は、三島の戦前からの精神史を踏まえた上で、三島の「狂い死」を、、、、や、「無名のテロリスト」のやと同じように位置づけた。 少年時代の三島に影響を与えたは、「森田青年の刃が、自他再度ともためらつたといふ検証は、心の美しさの証である。 やさしいと思ふゆゑにさらにかなしい」 、「三島氏は人を殺さず、自分が死ぬことに精魂をこらす精密の段どりをつけたのである」と哀悼し以下のように語った。 怖れた者は狂と云ひ、不安の者は暴といひ、またゆきづまりといひ、壁に頭を自らうちつけたものといつたりしてゐる。 想像や比較を絶した事件として、国中のみならず世界に怖ろしい血なまぐさい衝動を与へた点、近来の歴史上類例がない。 その特異を識別することは怖れをともなふ故に、それを無意識にさけて、政論的類型的に判断する者は、特異のふくんでゐる性や性や性に恐れる、現状の自己保全に処世してゐる者らである。 創造性以下のことばは、や所謂思想と無縁の人のの威力そのものである。 — 保田與重郎「天の時雨」 は、三島と思想的立場は違いながらも、「悪しき味方よりも果敢なる敵の死はいっそう悲しい」、「もし三島由紀夫氏のにして耳あるなら、聞け。 高橋和巳が〈醢をくつがえして哭いている〉その声を」と哀悼した。 は、「私と彼とは文体もちがい、政治思想も逆でしたが、私は彼の動機の純粋性を一回も疑ったことはありません」とコメントし 、は、「ほかにやり方はなかったものか。 ……なぜこの才能が破壊されねばならなかったのか」と無念さを表明した。 は、三島の死を短絡的に異常者扱いする風潮を批判し、「ただ劣等感の裏返しぐらいのことで片づけてしまえる粗雑な神経と浅薄な思考が、こうも幅を利かす時代なのか」と嘆いた。 は、「首相や長官が、三島由紀夫の自刃を狂気の沙汰だと言っているが、私は気ちがいはどっちだ、と言いたい」として、以下のように語った。 現在、日本は、外国から一人前のとして扱われていない。 国家も、人間も、その威が行われていることで、はじめて国家であったり、人間であったりするのであって、何の交渉においても、外国から、既に、尊敬ある扱いをうけていない日本は、存在していないのと同じである。 (中略)滑稽な日本人の状態を、悲憤する人間と、そんな状態を、鈍い神経で受けとめ、長閑な笑いを浮べている人間と、どっちが狂気か? このごろの日本の状態に平然としていられる神経を、普通の人間の神経であるとは、私には考えられない。 — 森茉莉「気ちがいはどっち?」 は、天皇思想の三島が、「」という強い観念を持ってを始め、という行動哲学を持ったことが決定的であり、「ムダを承知」の死への跳躍となったのは、楯の会という「集団の組織」の一員となり「錬成の形式」を取ったことが大きいとし、「もはやたかが思想とはいえない。 すでにして、思想は信念であって、組織は微小にしても、ともかく現実にはたらきかける力であった」と捉え、「わたしもまた発するにことばなく、感動に深く沈むばかりである」と追悼した。 は、三島と同じ戦中戦後を通った世代の人間として、事件の衝撃を自身への問いとして語った。 三島由紀夫の劇的な割腹死・介錯による首はね。 これは衝撃である。 この自死の方法は、いくぶんか生きているものすべてを〈コケ〉にみせるだけの迫力をもっている。 この自死の方法の凄まじさと、悲惨なばかりの〈檄文〉や〈辞世〉の歌の下らなさ、政治的行為としての見当外れの愚劣さ、自死にいたる過程を、あらかじめテレビカメラに映写させるような所にあらわれている大向うむけの〈醒めた計算〉の仕方等々の奇妙なが、衝撃に色彩をあたえている。 そして問いはここ数年来三島由紀夫にいだいていたのとおなじようにわたしにのこる。 〈どこまで本気なのかね〉。 つまり、わたしにはいちばん判りにくいところでかれは死んでいる。 この問いにたいして三島の自死の方法の凄まじさだけが答えになっている。 そしてこの答は一瞬〈おまえはなにをしてきたのか!〉と迫るだけの力をわたしに対してもっている。 たとえこのたびの事件が、社会的になんらかの影響をもつとしても、生者が死者の霊を愚弄していいという根拠にはなりえない。 また三島氏の行為が、あらゆる批評を予測し、それを承知した上での決断によるかぎり、三島氏の死はすべての批評を相対化しつくしてしまっている。 それはいうなればあらゆる批評を峻拒する行為、あるいは批評そのものが否応なしに批評されてしまうという性格のものである。 三島氏の文学と思想を貫くもの、 それは美的生死への渇きと、地上のすべてを空無化しようという、すさまじい悪意のようなものである。 — 磯田光一「太陽神と鉄の悪意」 (創始者)は、明治憲法復元を唱え、その著書『占領憲法下の日本』において、三島に序文の寄稿を依頼している。 また、事件に参加した古賀浩靖と小賀正義が生長の家の会員であり、三島が事件直前の11月22日 谷口雅春の誕生日に当たる に谷口宅と教団本部に会いたい旨の電話を入れている。 面会が叶わず「ただ一人、谷口先生だけは自分達の行為の意義を知ってくれると思う」と遺言を残したとされる。 葬儀・記念碑・裁判など [ ] 事件翌日の11月26日、慶応義塾大学病院で解剖を終えた2遺体は、首と胴体をきれいに縫合された。 午後3時前に死体安置室において、三島の遺体は弟・に引き渡され、森田の遺体は兄・治に引き渡された。 森田の方は、そのまますぐにのでに付された。 弟の死顔は、安らかに眠っているようだったと治は述懐している。 15時30分過ぎ、病院からパトカーの先導で三島の遺体が自宅へ運ばれた。 父・は息子がどんな変わり果てた姿になっているだろうと恐れ、棺を覗いたが、三島がに託した遺言により、楯の会の制服が着せられ軍刀が胸のあたりでしっかり握りしめられ、遺体の顔もまるで生きているようであった。 これは警察官たちが、「自分たちが普段から蔭ながら尊敬している先生の御遺体だから、特別の気持で丹念にしました」と施したものだった。 には親族のほか、、伊沢甲子麿、、松浦竹夫、、、、、、などが弔問に訪れた。 三島邸の庭のアポロンの立像の脚元には、30本あまりの真紅のが外から投げ入れられていた。 愛用の原稿用紙とが棺に納められ、16時過ぎに出棺となった。 その時に母・は指で柩の顔のあたりを撫でて、「公威さん、さようなら」と言った。 三島の遺体はので18時10分に荼毘に付された。 森田のも18時過ぎに、楯の会会員によって代々木の聖徳山諦聴寺で営まれた。 森田のは「 慈照院釈真徹必勝居士」。 この時に、三島が楯の会会員一同へ宛てた遺書が皆に回し読みされた。 の実家での通夜は、翌日11月27日、葬儀は11月28日に信者の兄・治の希望により海の星で営まれ、16時頃に納骨された。 三島家からは弟・千之が出席した。 11月30日、三島の自宅でのが営まれた。 三島は両親への遺言に、「自分の葬式は必ず式で、ただし平岡家としての式は式でもよい」としていた。 戒名については「必ず〈武〉の字を入れてもらいたい。 〈文〉の字は不要である」と遺言していたが、遺族は「文人として育って来たのだから」という思いで、〈武〉の字の下に〈文〉の字も入れることし、「 彰武院文鑑公威居士」となった。 12月11日、「三島由紀夫氏追悼の夕べ」が、を発起人総代とした実行委員会により、ので行われた。 これが後に毎年恒例となる「」の母胎である。 司会はと、実行委員はなどの学生で、集まった人々は3000人以上となった(主催者発表は5000人)。 会場に入りきれず、近くの中池袋公園にも人が集まった。 三島由紀夫の墓 翌年(昭和46年)1月12日、平岡家で49日の法要が営まれた。 大阪のでは、林房雄ら10名を発起人とした「三島由紀夫氏を偲ぶつどひ」が催され、約2000人が集まった。 1月13日は、負傷した自衛官たちへ三島夫人・がお詫びの挨拶回りに来た。 1月14日、三島の誕生日でもあるこの日、の平岡家墓地(10区1種13側32番)にが埋葬された。 自決日の49日後が誕生日であることから、三島がのためのの期間を定めたのではないかという説もある。 1月24日、13時からで葬儀、告別式が営まれた。 は妻・平岡瑤子、葬儀委員長は川端康成、司会は村松剛。 三島の親族約100名、森田の遺族、楯の会会員とその家族、三島の知人ら、そして一般参列者のうち先着180名が列席した。 のデザイン制作により、黒のスポーツシャツ姿の三島の遺影を中心に、黒布の背景に白菊で作った大小7個の花玉が飾られた簡素な祭壇が設けられた。 弔辞は(持病のため途中からが代読)、、、、、、、の8名が読んだ。 演劇界を代表した村松英子は嗚咽しながら弔辞を読んでいた。 先生が身をもって虚空に描き出された灼熱の、そして清らかな光を前にしては、すべてのことばが、むなしく感じられ、私はただ茫然と佇む思いです。 私にとってかけがえのない師だった先生、先生の血潮は、絢爛と燃える夕映えののように、日本の汚れた空を染め上げたのです。 (中略) いたわりを、それと見せないように、いたわって下さるのが、先生でした。 燃えたぎると冷徹なとを、同時に兼ねそなえることの可能性を、示して下さったのが先生でした。 明晰な炎は、つねに私たちを導く光でした。 (中略)先生が身をもって點じられたあの美しい炎は、永久に消えることなく、先生を愛惜し敬慕する人たちの頭上に、燃えつづけることでしょう。 ふつつかな私も、その輝きに忠実を誓うひとりでございます。 どうかそういう私たちをお見守り下さいますように。 — 「弔辞」 他の参列者は、、、、、、、、、、、徳岡孝夫などがいた。 の放送局が、三島の葬儀を生中継したいと申し入れて来ていたが、実行委員会はこれを辞退した。 当時の首相の夫人も、に乗りしてでも参列したいと申し出ていたが、勢力が式場を襲うという噂が飛び交っていたため警備上の問題で実現しなかった。 臨時の看護施設やトイレットカーが配備され、私服・制服警察官100人、機動隊50人、ガードマン46人が警備に当たる中、8200人以上の一般客が会場入り口に置かれた大きな遺影に弔問し、元軍人からOLにいたるまで多彩な三島ファンが押しかけた。 中には、「追悼三島由紀夫」ののぼり旗を立ててから会社ぐるみでかけつけた団体もあり、文学者の葬儀としては過去最大のものとなった。 1月30日、「三島由紀夫・森田必勝烈士」が(現・)の玄関前に建立され、除幕式が行なわれた。 碑には、「 誠」「 維新」「 憂国」「 改憲」の文字が刻まれた。 2月11日、三島の本籍地のの八幡神社境内で、地元の生長の家(現)の会員による「三島由紀夫を偲ぶ追悼慰霊祭」が行われた。 2月28日、楯の会の解散式がの禊大教会で行われ、瑤子夫人と75名の会員が出席した。 瑤子夫人の実家の杉山家が神道と関係が深く、神道禊大教会と縁があったため、解散式の場所となった。 倉持清が「声明」を読み、〈蹶起と共に、楯の会は解散されます〉 という三島の遺言の内容を伝えて解散宣言をした。 三島が各班長らに渡し、皇居のに預けられていた日本刀は、瑤子夫人のはからいで、それぞれ班長に形見として渡された。 3月23日、「楯の会事件」第1回がの701号法廷で開かれた。 3被告の家族らと平岡梓、瑤子、遺言執行人の斎藤直一弁護士が傍聴した。 裁判長は櫛淵理。 陪席裁判官は石井義明、本井文夫。 検事は石井和男、小山利男。 主任弁護人は草鹿浅之介。 弁護人は野村佐太男、酒井亨、林利男、江尻平八郎、大越譲であった。 第7回公判日の2日後の7月7日、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の3被告がとなった。 犯罪事実を認め、証拠隠滅や逃亡の恐れがないため、17時にを出所した3人は瑤子夫人が出迎えられ、19時からで記者会見を行なった。 9月20日、瑤子夫人が墓参の折、墓石の位置の異常に気づいた。 翌日の9月21日、立花家石材店の人が納骨室を開けたところ、が壷ごと紛失しているのを発見し、に届け出た。 盗まれた遺骨は、同年12月5日、平岡家の墓から40メートルほど離れたところに埋められているのが発見された。 遺骨は元の状態のままで、一緒に入れられていたも元の状態であった。 11月25日、(現・)の(元曹長)宅の庭に「三島由紀夫文学碑」が建立された。 は三島瑤子(平岡瑤子)。 生前、三島が宮崎清隆に送った一文が「三島由紀夫文学碑の栞」に掲載された。 同日、平岡家では神式の一年祭をで行なった。 (昭和47年)4月27日、これまで17回の公判までに、中曽根康弘、村松剛、黛敏郎など多彩な人物が証人に立った「楯の会事件」裁判の第18回最終公判が開かれ、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の3名に4年のが下された。 罪名は、「、違反、、、」となった。 判決文の最後は「被告人らは宜しく、『学なき武は匹夫の勇、真の武を知らざる文は譫言に幾く、仁人なければ忍びざる所無きに至る』べきことを銘記し、事理を局視せず、眼を人類全体にも拡げ、その平和と安全の実現に努力を傾注することを期待する」と締めくくられていた。 3人が刑期を終えて出所してから、元楯の会会員たちによる三島・森田の慰霊祭が始まった。 出所した古賀がで神道を学んだ後、での資格を取り、3人で慰霊している所に元会員が集まるようになり、毎年慰霊祭が行われるようになった。 その後、元会員と平岡家との連絡機関として「三島森田事務所」が出来た。 (昭和50年)3月29日、三島と親交があり三島事件に強い共感を示していたが、自宅で日本刀により自害した。 (昭和52年)3月3日、元楯の会会員・伊藤好雄(1期生)と西尾俊一(4期生)が参加したが起こった。 瑤子夫人の説得により投降し終結した。 (昭和55年)8月9日、三島がを引き受けていた楯の会会員・倉持清(現・本多清)に宛てた遺書の全文が、朝日新聞で紹介された。 同年11月24日、、元楯の会有志らにより「三島由紀夫烈士及び森田必勝烈士慰霊の十年祭」が市ヶ谷の私学会館で開催された。 (平成11年)11月下旬と(平成12年)1月4日、三島が楯の会会員一同に宛てた遺書が新聞各紙に公開された。 (平成30年)11月26日、三島事件の当事者で楯の会メンバーのが心不全のため70歳で死去した。 三島由紀夫と自衛隊 [ ] 「」も参照 昭和41年 [ ] 1965年(昭和40年)頃から自衛隊体験入隊希望を口にするようになっていた三島は、「」の真っ只中の(昭和41年)6月に短編『』を発表。 8月に長編『』の取材のためにのを訪れ、その足でのなどを見学。 教育参考館での遺書を読んだ。 その後に渡りのゆかりの地(、など)を取材して10万円のを購入する。 三島は秋頃から民兵組織の構想を練り始め 、10月頃からへ自衛隊体験入隊希望を打診したが断られ、橋渡しを常務のに依頼し、防衛庁事務次官・三輪良雄や元・などと接触して口利きを求めた。 12月19日、から雑誌の創刊準備をしている青年の話を聞いたの紹介で、万代潔(門人で卒)が三島宅を訪ねて来た。 また同月には、著『英霊の絶叫』(12月10日刊)の序文を書いた礼として、舩坂から日本刀・関孫六を寄贈されていた。 昭和42年 [ ] (昭和42年)1月5日に民族派月刊雑誌『』が創刊され、11日に編集長・中辻和彦(平泉澄門人で明治学院大学卒)と副編集長・万代潔の両人が揃って、寄稿依頼のために三島宅を訪問した。 三島は無償で同誌に寄稿することにし、2人は3日に1度の割で三島を訪ねた。 三島は2人の青年に、「『英霊の聲』を書いてから、俺には一等主計の霊が乗り移ったみたいな気がするんだ」と真剣な顔で言い、ある時は日本刀を抜いて、「刀というものは鑑賞するものではない。 生きているものだ。 この生きた刀によって、におけるの欺瞞をえぐらなければならない」とも言った。 1月27日には、万代らと同じ平泉澄の門人で『論争ジャーナル』のスタッフをしている(日学同)の(生)も三島宅を訪問し、翌月創刊の『日本学生新聞』への寄稿を依頼した。 この頃三島は、の担当編集者のに、「恐いみたいだよ。 小説に書いたことが事実になって現れる。 そうかと思うと事実の方が小説に先行することもある」と語ったという。 2月28日には、、、と連名で、のに抗議する声明の記者会見を行なった。 3月、三島の自衛隊体験入隊許可が下り(1、2週間ごとに一時帰宅するという条件付)、4月12日から5月27日までの46日間、単身で体験入隊する。 本名の「平岡公威」で入隊した三島は先ず、の隊付となった。 4月19日に離校後、に赴き、山中踏破、などを体験後、富士学校幹部上級課程(AOC)に属し、菊地勝夫の指導を受けた。 その4月中旬か下旬頃、三島はから「若手自衛官幹部の生活ぶりを見せましょう」と娘婿・の借家を案内され、数日後冨澤とその同期生5人ほどと会食した。 その席で三島は、学生デモ隊を警察力だけで抑えきれなくなった際の自衛隊治安出動時を利用し政権をこちら(自衛隊側)のものにしようと、共に行動を促す自身のクーデター案を述べたが、冨澤は「そんな非合法なことはやりません」と答えた。 その時三島は冨澤らに対し「倶に天を戴かず」といった顔色になったという。 5月11日以降は、課程に所属した後、に移動し、基礎訓練(降下訓練を除く)を体験した。 論争ジャーナル組、日学同の学生たちが、「自分たちも自衛隊体験入隊したい」との意向を示した。 三島は民兵組織の立ち上げを本格的に企図し、持丸博を通じて、早稲田大学国防部(4月に結成)からの選抜協力を要請した。 こうして、論争ジャーナル組、日学同と三島の三者関係が徐々に出来上がった。 6月19日、の「ヴィクトリア」で行われた早稲田大学国防部代表との会見で、三島と(早稲田大学教育学部、日学同)は初めて顔を会わせ、早大国防部の自衛隊体験入隊の日程を決めた。 7月2日から1週間、早大国防部13名が自衛隊で体験入隊。 森田はその時の感想を、「それにしても自衛官の中で、をとるためだとか、が有利だとか言っている連中の化現象は何とかならないのか」と綴り、自衛隊員が「について多くを語りたがらない」ことと、「クーデターを起こす意志を明らかにした隊員が居ないのは残念だった」ことを挙げた。 8月、三島は国土防衛隊中核体となる青年を養成する具体的計画を固め、自衛隊体験入隊を定期的に実施するため、9月9日に、陸上自衛隊のと面談した。 10月、三島は小説『』の取材で訪れたで、5日に、、と面会し、の脅威に対する日本の意識の欠如について危機感を抱く。 中共とを接してゐるといふ感じは、とても日本ではわからない。 もし日本と中共とのあひだに国境があつて向かう側にが並んでたら、いまのんびりしてゐる連中でもすこしはきりつとするでせう。 まあ海でへだてられてゐますからね。 もつともいまぢや、海なんてものはたいして役に立たないんだけれど。 ただ「見ぬもの清し」でせうな。 — 三島由紀夫「インドの印象」 帰国後の11月、三島は、論争ジャーナルのメンバーと民兵組織「祖国防衛隊」の試案を討議し、祖国防衛隊構想を作成し始めた。 12月5日には、からに試乗した。 12月末、祖国防衛隊構想パンフレットを、元上司・藤原岩市から見せられた情報教育課長・1佐が、藤原の仲介で三島と会食した。 巷で候補と騒がれている三島に対し、「でいらっしゃるあなたは、やはり書くことに専念すべきであり、書くことを通してでも、あなたの目的は達せられるのではありませんか」と問う山本1佐に、三島は「もう書くことは捨てました。 ノーベル賞なんかには、これっぽちの興味もありませんよ」と、じっと目を見据えてきっぱりと答えた。 この瞬間、山本1佐は背筋にピリリと火花が走り、「これは本気なのだ」と確信し、三島と一緒にやれると思ったと同時に、この人にはしてはならぬと感じた。 持丸博によると、三島は山本と会ってひどく興奮し、「あの人はの専門家だ。 俺たちの組織にうってつけの人物じゃないか。 おまえも一緒に会おう」と言ったという。 この頃、「祖国防衛隊」構想に全面的に賛同する論争ジャーナル組と、その「急進主義的色彩」と三島の私兵的なイメージに難色を示す日学同(斉藤英俊、)との間に亀裂が生じ始め、持丸博、伊藤好雄、宮沢徹甫、らが日学同を除籍となり、論争ジャーナル組に合流した。 持丸は三島と共に、雑誌『論争ジャーナル』の副編集長となった。 昭和43年 [ ] (昭和43年)2月25日、銀座8丁目4-2の小鍛冶ビルの育誠社内の論争ジャーナル事務所において、三島由紀夫、中辻和彦、万代潔、持丸博、伊藤好雄、宮沢徹甫、阿部勉ら11名が血盟状を作成。 その時に三島は、「血書しても紙は吹けば飛ぶようなものだ。 しかし、ここで約束したことは永遠に生きる。 みんなでこの血を呑みほそう」と、先ず自分が呑もうとして、「おい、この中で病気のある奴は手をあげろ」と皆を大笑いさせてから、全員で呑み合った。 血には固まらないようにを入れていた。 3月1日から1か月、持丸博を学生長とする論争ジャーナル組が、三島とへ自衛隊体験入隊。 直前にの5名がスト解除で参加できなくなり、持丸は日学同の矢野潤に代員の応援を求めた。 これに応じて森田必勝が1週間遅れで入隊した。 春休み帰省中にで右足を骨折して治療中だったにもかかわらず、苦しい訓練に参加し頑張る森田の姿に三島は感心し注目した。 3月30日、体験入隊が無事終了し、主任教官や隊員と「男の涙」の別れをした森田ら学生一行は貸し切りバスでの三島邸に向い、慰労会の夕食に招かれた。 1期生となった森田は三島への礼状に、「先生のためには、いつでも自分は命を捨てます」と速達で書き送った。 それに対し三島は、「どんな美辞麗句をならべた礼状よりも、あの一言には参った」と森田に告げた。 森田はこの頃、返還運動などに尽力していた。 三島は、祖国防衛隊構想に政財界の協力を得るため、に相談していたが、この頃から持丸博を通じ、(代表)らへの接触を始め、初面談を持った。 しかし、なかなか承諾を得られず、自衛隊関係者から三輪良雄を通じて説得をすることをアドバイスされ、3月18日、三輪良雄にその旨を伝えた。 4月上旬、の手配により、(の制服担当)のデザインした制服が完成したのを祝し、三島は論争ジャーナル組から成る祖国防衛隊隊員らと共にその制服での愛宕神社を参拝し、満開の桜吹雪の下で記念写真を撮った。 同月中旬、三島は桜田武、三輪良雄、藤原岩市と四者面談した。 桜田は前回より理解を示し、民兵組織を「体験入隊同好会」という無難な名称にするように指示し、中核隊員のみを無名称で置いて「祖国防衛隊」の任務とすることで合意した。 この頃、早稲田大学の校内には、「体験入隊募集」の看板が設置されるなど広く人材を求め、応募してきた学生を持丸が一次面接試験した。 5月から、山本舜勝1佐による祖国防衛隊の中核要員への集中講義、訓練支援が開始され、27日には、と思しき遺体がの浜浅内に漂流した「能代事件」(1963年4月)が扱われた。 この事件が何かの圧力で単なる事件として処理され、うやむやのままとなったことを知った三島は、溺死体の写真をじっと見つめた後、「どうしてこんな重大なことが、問題にされずに放置されるんだ!」と激昂したという。 6月1日、三島と中核要員は山本1佐の指導の下、市中で対ゲリラ戦略の総合演習(張り込み、潜入、尾行、変装など)を行なった。 労務者に成りすまして任務をこなし、誰にも見破られないようにの玉姫公園までたどり着いた三島の疲れ果てた真剣な姿に、山本1佐は深い感動を覚えたという。 同月15日、「全日本学生国防会議」が結成され、森田必勝が初代議長に就任。 三島は森田のため、この結成大会で祝辞を述べし、デモの時もタクシーで随伴し、窓から森田を激励した。 7月25日、学生らを引率した第2回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、8月23日まで行われた。 この時に伊藤邦典の紹介でと(共に生、)が参加し、2期生となった。 一方、桜田武(日経連)からの支援協力が結局は中途半端な形で、バカにされたことから(最終的に桜田は、「君、など作ってはいかんよ」と、300万円の投げ銭をしたという)、三島のプライドはひどく傷つき、民兵組織を全て自費で賄うことにした。 組織規模を縮小せざるをえなくなった祖国防衛隊は、隊の名称を歌の「今日よりは 顧みなくて の 醜(しこ)の御楯と 出で立つ吾は」と、歌人・の「大皇の 醜の御楯と いふ物は 如此る物ぞと 進め真前に」に2首にちなんだ「 楯の会」と変えた。 10月5日にので三島と初代学生長・持丸博、中核会員約50名が「楯の会」の正式結成式が行われ、ある新聞がこれをスクープして伝えた。 10月21日のの日、三島と楯の会会員、山本1佐との学生らは、デモ()の状況を把握するため、デモ隊の中に潜入し組織が誰かなどを調査した。 の黒煙や催涙ガスが充満する中、三島は目を真っ赤に充血させながら身じろぎもせずにとの攻防戦を見つめていた。 場所を銀座に移動し、交番の屋根の上から、石が飛び交う激しい市街戦を見ている三島の身体が興奮で小刻みに震えているのを、すぐ隣にいた山本1佐は気づいた。 この日、六本木のにも新左翼のが突入しようとし、機動隊が猛烈な放水で応戦するが正門は突破されてしまった。 新左翼の暴動を鎮圧するための自衛隊の機会を予想した三島は、その時に楯の会が斬り込み隊として自衛隊の手が及ばないところを加勢し、それに乗じて自衛隊化・改正を超的に実現する計画を構想し始めた。 この日の昼過ぎ、赤坂に設営していた拠点に一旦引き揚げた時、山本1佐が持参のを三島に勧めると、「えっ、なんですか。 この事態に酒とは!」と憤然と席を立ち去ったという。 騒乱の続く夜、会員たちを拠点に集結させた三島は、この日の総括の会をここで持ちたいと山本1佐に願い出た。 まさに今こそ決起行動に出るべきと主張し詰め寄る会員もいたが、まだ治安出動はないと見込んだ山本1佐は演習会の解散を進言し、落胆した三島は会員たちをへ移動させていった。 治安出動イコール条件と私は考へても間違ひないと思ふ。 でありますから、「撤兵しないぞ」と言はれたら、どんな政権もかなふ政権はないんです。 だから、「ぢや、おまへ、撤兵するにはどうしたらいいんだ。 撤兵してもらふにはどうしたらいいんだ」。 「憲法を改正してを認めなさい」と言つちやへばそれまでだ。 これは何もしなくてもできちやふ。 私は悪いことを唆すんぢやないけれども(笑)、それくらゐの腹がなければ、自衛隊のといふものはこれからやつていけないと私は思つてる。 だから、遠くのはうから遠巻きにしてを動かさう、なんていふことを考へるよりも、本当のチャンスが来たときにグッと政治的な手を打てるゼネラルがゐないといかんな。 — 三島由紀夫「素人防衛論」(での講演) 11月10日、東大全共闘に軟禁されている文学部部長のの解放を求めて、三島はと共に東大に赴き、林との面会を求めるが全共闘に拒絶されて叶わなかった()。 12月21日の山本1佐によるゲリラ戦の講義の時、三島は、「ゲリラとは、(人を欺く)弱者の戦術ではないですか?」と疑問を投げかけた。 講義の休憩中、森田必勝は山本1佐に、「日本でいちばん悪い奴は誰でしょう? 誰を殺せば日本のためにもっともいいのでしょうか?」と訊ねたという。 山本1佐は、「死ぬ覚悟がなければ人は殺せない。 私にはまだ真の敵が見えていない」と答えた。 12月末、三島邸に楯の会の中核会員と山本1佐らが集まり、楯の会と株式会社やとの連携計画が模索された。 やがて話題がなどに及び、「あなたは一体いつ起つのか」という主旨で三島に問われた山本1佐が、暴徒がに乱入して天皇が侮辱された時と、治安出動の際だという主旨で答えると、「その時は、あなたのもとで、をやらせてもらいます」と三島が哄笑して言ったという。 三島は、山本1佐やそれに繋がる旧陸軍関係者や政府高官との接触を通じ、治安出動の可能性の感触を得て、以下のようなクーデター計画を構想していた。 治安出動が必至となったとき、まず三島と「楯の会」会員が身を挺してデモ隊を排除し、私(山本1佐)の同志が率いる東部方面の特別班も呼応する。 ここでついに、自衛隊主力が出動し、状態下で首都の治安を回復する。 万一、デモ隊が皇居へ侵入した場合、私が待機させた自衛隊のヘリコプターで「楯の会」会員を移動させ、機を失せず、断固阻止する。 このとき三島ら十名はデモ隊殺傷の責を負い、鞘を払って日本刀をかざし、自害切腹に及ぶ。 「反革命宣言」に書かれているように、「あとに続く者あるを信じ」て、自らの死を布石とするのである。 三島「楯の会」の決起によって幕が開く革命劇は、後から来る自衛隊によって完成される。 クーデターを成功させた自衛隊は、憲法改正によって、国軍としての認知を獲得して幕を閉じる。 — 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」 昭和44年 [ ] (昭和44年)1月18日、反系の新左翼学生らがを占拠するが起きた。 19日、警視庁機動隊と学生らとの攻防戦を見ていた三島は、新左翼が時計台から飛び降り自決してとが結びつくことを防ぐため、「ヘリコプターで催眠ガスを撒いて眠らせてくれ」と警視庁に電話を入れた。 しかし、三島の危惧は無用の老婆心となり、予想に反し誰も命を賭けるような意欲のある東大生などいなかった。 三島は、あっけなく投降するに安堵すると同時に失望し、最終的には自分たちとは価値観が違うことを悟って軽蔑するようになった。 2月1日、論争ジャーナル組と日学同との架け橋役であった森田必勝が、日学同よりも論争ジャーナル組側に完全に傾き、(法学部)、野田隆史、田中健一、鶴見友昭、西尾俊一の5名と共に日学同を除籍となった。 この6名は新宿区(4丁目)にある小林荘をたまり場としていたため「十二社グループ」と呼ばれ、も辞さない一匹狼の集団であった。 2月19日から23日まで、山本舜勝1佐の指導の下、ので合宿し、楯の会の特別訓練が行われた。 暖房もない厳寒の本堂で、夜は寝袋、食事は持参の缶詰という過酷な状況の中、皆が寝静まった後、三島は白い息を吐きながら机に向かって執筆活動もしていたという。 その後ろ姿を見た山本1佐は、「私はこの人となら死んでもいい」と思った。 2月25日、山本1佐の時代の同期生での協力者であった自衛隊員Mを交えて、山本宅で三島との会談があった。 Mは三島の『反革命宣言』の思想に大いに共鳴していたが、〈有効性は問題ではない〉という部分についてだけは、「行動する以上勝たなければ意味がない」と反論し、敵に優る武器(、)など、具体的な手段の有効性が第一だと論じた。 それに対して三島は、「それでは 問題のたて方がまるで違うんだ」と、先ず「文化を守る」という目標意識の重要性、「日本刀」で戦うことの比喩的意義を説き、「実際に、自らの命を賭けて斬り死にすること、その行為があとにつづく者をまた作り出すんだ」と、自らは安全地帯の発射ボタン一つで大量殺戮をする物質的近代武力意識への反論を返した。 われわれは、護るべき日本の・・の最後の保持者であり、最終の代表者であり、且つその精華であることを以て自ら任ずる。 「よりよき社会」をするあらゆる思想とわれわれは先鋭に対立する。 なぜなら未来のための行動は、文化の成熟を否定し、伝統の高貴を否定し、かけがへのないをして、すべてへのに化せしめるからである。 自分自らを歴史の化身とし、歴史の精華をここに具現し、伝統の美的形式を体現し、自らを最後の者としたこそ、の行動原理であり、特攻隊員は「あとにつづく者あるを信ず」といふ遺書をのこした。 「あとにつづく者あるを信ず」の思想こそ、「よりよき未来社会」の思想に真に論理的に対立するものである。 なぜなら、「あとにつづく者」とは、これも亦、自らを最後の者と思ひ定めた行動者に他ならぬからである。 有効性は問題ではない。 — 三島由紀夫「反革命宣言」 3月1日から、学生を引率した第3回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で29日まで行われた。 この第3回体験入隊で、小川正洋が参加して3期生となった。 9日から15日には、体験入隊経験者(会員)を対象とする上級のリフレッシャーコースの訓練も行われ、「玩具の兵隊さん」と世間から呼ばれていた楯の会の実態は、自衛隊の将校も驚くほど精鋭されていった。 はこの体験入隊を取材し、の『』に記事掲載した。 ストークスがリフレッシャーコースの森田必勝に、「なぜ楯の会に入ったのか」と問うと、「三島に随いていこうと思った。 ……三島はとつながっているから」と答えた。 4月13日、ストークスの記事を読んだロンドンのテムズ・テレビが、市ヶ谷会館での楯の会の4月例会の取材に来て、訓練の様子を撮影した。 三島は、ストークスや、テムズ・テレビのレポーター・ピーター・テーラーを自宅に招いた。 4月28日の沖縄デーの日、三島と山本1佐は、新左翼のゲリラ活動や激しい渦巻きデモを視察した。 その後、三島は山本1佐を皇居に面するに連れて行き、エレベーターで舞台下の奈落を案内し、「奈落は、私の信頼する友人が管理しています。 いつでもお使い下さい」と言った。 同月には、『自衛隊二分論』を発表した。 三島は、体験入隊の訓練中に知り合った若い自衛隊幹部の中に協力者を見つけ出そうとしていたが、三島に同調する幹部もこの時期に出始めていた。 その中の1人は、山本1佐の真意が解らないと三島が漏らす言葉を聞き、山本1佐に「もし、あなたの心が変わったのなら、われわれも黙っておりませんから、どうかそのつもりでいてください!」と電話して来る者もあった。 を卒業した将校とも交流を求め、親交を深めようとしていた三島に対する防衛庁の圧力が、この春頃から様々なかたちであり、楯の会の訓練の規制がはめられるようになって来ていた。 官民一体となった行動の模索をしていた三島の自衛隊内部への苛立ちが次第に強まり、表向きは自衛隊の内部批判はしなかったが、楯の会の会員の間では内局への罵倒が繰り返された。 5月11日、港区の(三島の祖父・の)境内の・醍醐で、三島と山本1佐ら自衛隊幹部が会食し、新左翼の闘争や国防問題の情勢を分析した。 この時、三島はの訓練をする適切な場所はないか訊ねたという。 5月13日、三島は、東大教養学部教室で開催されたとの討論会に出席し、新左翼学生らと激論を交わした(詳細はを参照)。 5月から三島は、楯の会の幹部級の7、8名にもを習わせ始め、9名(持丸博、森田必勝、倉持清、福田俊作、福田敏夫、勝又武校、原昭弘、小川正洋、小賀正義)に日本刀を渡し、斬り込み可能の「決死隊」を作った。 5月23日、山本1佐の下、楯の会会員100名の特別訓練の初日。 26日まで訓練が行われた。 この少し前、三島はの仲介で、山本1佐と共に官房長官と会った。 6月下旬、三島と山本1佐と部下5名の自衛官がのレストランの個室で会食した。 三島は、楯の会の皇居死守の具体的な実行動の計画について話し、「すでに決死隊を作っている」と山本1佐に決断を迫った。 5名の自衛官らは三島に賛同したが、山本1佐は、「まずの訓練をして、その日に備えるべきだ。 それも自ら突入するのではなく、暴徒乱入を阻止するために」と制して賛同しなかった。 自衛官らが、「臆病者! あなたはわれわれを裏切るのか!」と山本1佐に詰め寄るのを三島が制止した。 沈黙の後、三島は義憤を抑えた面持で、「皇居突入、死守」など三ヶ条が書かれた紙を灰皿の上で燃やした。 次の訓練の試案を山本1佐が話し終えた後、三島は総理官邸での演習計画を提案するが、自衛隊に批判的なの目を恐れた山本1佐はすぐに「それは駄目です」と断った。 7月、山本1佐が陸上自衛隊調査学校副校長に昇格し、次第に楯の会の指導協力に費やす時間がなくなっていった。 この初夏の頃、何人かの将校幹部(陸将)と三島の間で企図されていたクーデター計画が闇に葬られることになった。 将校幹部らはとパイプがあり、アメリカ側の了解を得て、自衛隊国軍化に向けた治安出動を行うはずであったが、が密かに訪中の準備を始めアメリカが路線に転換したため(計画)、日本国軍化が認められない状況となった。 7月26日から、学生と会員を引率した第4回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で8月23日まで行われた。 この頃から、楯の会の主要古参会員の中辻和彦、万代潔らと三島との間の齟齬が表面化。 三島の意に反して、金銭感覚や女性関係がルーズだった中辻が財政難の論争ジャーナルの資金源をに求めたことが決定的な亀裂となり、8月下旬に、中辻、万代ら数名が楯の会を退会した。 10月12日、楯の会の10月例会で持丸博(初代学生長)も正式退会となった。 中辻と親しい持丸は、どちらの側に付くか迷ったあげく、論争ジャーナルの編集と楯の会の活動の両方を辞めることに決めた。 三島は、「楯の会の仕事に専念してくれれば生活を保証する」と何度も説得して引き留めたが、持丸はそれを辞退した。 持丸の代わりに森田必勝が楯の会の学生長となり、論争ジャーナル編集部内に置いていた楯の会事務所も森田の住むアパートに移転した。 持丸は、会の事務を手伝っていたと婚約していた。 大事な右腕だった持丸を失った三島は山本1佐に、「男はやっぱり女によって変わるんですねえ」と悲しみと怒りの声でしんみり言ったという。 10月21日の国際反戦デーの日、三島と楯の会会員は昨年と同様に、左翼デモ()の状況を確認するが、新左翼は機動隊に簡単に鎮圧された。 もはや自衛隊の治安出動と斬り込み隊・楯の会の出る幕はなく、憲法改正と自衛隊国軍化への道がないことを認識した。 警察と自衛隊との相違を明確化するため、政府()はこのチャンスにあえて自衛隊を治安出動すべきであると考えていた三島にとって、失望感と憤慨は大きかった。 三島は新宿の街を歩きながら、「だめだよ、これでは。 まったくだめだよ」と独り言を繰り返し、自暴自棄になったように「だめだよ、これでは」と叫んだという。 三島と家族ぐるみの付き合いがあったとする佐々淳行によれば、このときの視察は「(三島に)マスコミの場で機動隊の応援をしていただくようお願いせよ」との上司の指示を受けた佐々の計らいによるものであったが、戻ってきた三島は「もう僕らの出番はないよ。 機動隊員たちは皆、白い歯を見せながら余裕綽々過激派を捌いている。 僕らの出番を奪ってしまった佐々さん、貴方を恨みますよ」と述べた。 佐々は「もうゲバ闘争は終りです。 貴方も文学の世界に戻られては如何ですか」と説得したが、以後両者の間で音信は途絶えた。 10月31日、三島宅で行われた楯の会班長会議で、10・21が不発に終わったことで今後の計画をどうするかが討議された。 森田は、「楯の会と自衛隊でを包囲し、憲法改正を発議させたらどうだろうか」と提案するが、武器の調達の問題や、国会会期中などで実行困難と三島は返答した。 11月3日の15時から、屋上で、前校長・碇井準三元陸将を観閲者に迎えて、楯の会結成一周年パレードが行われた。 演奏は陸上自衛隊富士学校音楽隊。 女優のやが花束を贈呈した。 同劇場2階大食堂でのパーティーでは、元陸将、三輪良雄元が祝辞を述べ、三島が挨拶した。 単に、軍隊的行動であるが故に嫌悪する、戦後の風潮は私は非常にある意味で偽善であると思ってきたわけであります。 ここで、私は決してとか、とかという意味ではなしに、日本人が市民生活のなかに、自然に軍隊教養を持っていつでも銃を持って立ちあがれる、外的な侵入に際しても銃をとって立ちあがれるだけの、訓練をへた人間が青年のなかに一人でも多くならなければいかん、そこではじめて我々にも自信をもってないし、を自分のなかで養い、育てることができるんだと思ったことが、楯の会をつくった動機であります。 — 三島由紀夫「楯の会1周年挨拶」 11月16日、新左翼によるが行われるが、再び機動隊に簡単に鎮圧され自衛隊の治安出動は完全に絶望的となった。 11月28日、三島は山本1佐を招いて自宅で「最終的計画案」の討議を開くが、山本1佐から具体策が得られず終わった。 12月8日から4日間、三島は北朝鮮武装ゲリラに対する軍事事情視察のためにに行った。 12月22日、三島と楯の会は、陸上自衛隊で例会を開き、で降下の予備訓練を行なった。 訓練後、三島は憲法改正の緊急性を説いた。 これに基づいて、 (1期生)を班長とする「憲法改正草案研究会」が楯の会内に組織されることが決まり、毎週水曜日の夜に3時間討議会を実施することとなった。 12月1日に三島は、翌年正月に発表するとの対談で、現下の自衛隊には、のような革命を起こせる体制はなく、1佐以上の将校でなければ何も起こせない状態だと語っていた。 昭和45年 [ ] (昭和45年)正月、1佐や楯の会会員たちが集まった三島邸での新年会で、民間防衛の話に及んだ際、三島が何気なく、「自衛隊に刃を向けることもあり得るでしょうね」と発した。 1月末、三島は昨年12月に訪韓した際に世話になった韓国陸軍の元少将Rと1佐とを招いて会食。 Rの辞去後、三島が山本1佐に、「(クーデターを)やりますか!」と問うが、山本1佐は、「やるなら私を斬ってからにして下さい」と返答した。 この頃三島は、山本1佐が「硬骨」と評価している自衛隊将校と接触していた。 3月1日、学生と会員を引率した第5回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、28日まで行われた。 この頃から、(学生長、第1班班長)と三島は決起計画を話し合うようになるが、まだ具体策はなかった。 同月、三島は村松剛に、「は、おれに日本のあとをたのむといって出征したんだよ」と呟いた。 3月末に突然、三島は姿で袋に入れた日本刀を携えて山本1佐宅を訪問した。 山本1佐は日本刀の話題を出さないようにしていたが、三島がその刀を自分に提供して決意を促すつもりのような気がした。 帰り際に三島は、「山本1佐は冷たいですな」と言い、「やるなら制服のうちに頼みますよ」と山本1佐は返した。 4月3日、三島は1-1ののコーヒーショップにおいて(第5班班長)に、最後まで行動を共にする意志があるかを訊ね、小賀は承諾した。 4月10日、三島は自宅に招いた(第7班班長)にも、「最終行動」に参加する意志があるかどうか打診し、小川も小賀同様に沈思黙考の末に承諾した。 4月下旬、11年前の(昭和34年)から毎号読んでいた『蓮田善明とその死』(著)が3月刊行されたため、三島はそれを携え山本1佐宅を訪問し、「私の今日は、この本によって決まりました」と献呈した。 5月、「憲法改正草案研究会」のための資料『問題提起』の第1回「新憲法における『日本』の欠落」を三島は配布した。 5月中旬、三島宅に森田必勝、小賀正義、小川正洋の3名が集まった。 楯の会と自衛隊が共に武装蜂起して国会に入り、憲法改正を訴えるという「最良の方法」を討議するが、具体的な方法はまだ模索中であった。 6月2日、三島と楯の会は陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、上級者のリフレッシャーコースを、4日まで行なった。 この回は食糧を支給されず不眠不休でをする過酷な訓練だった。 6月13日、三島、森田、小賀、小川の4名が赤坂葵町3番地(現・2丁目10-4)の821号室に集合。 これまで接触してきた自衛隊将校らにはもう期待できないことを悟り、自分たちだけで実行する具体的な計画を練った。 三島は、自衛隊の庫を占拠して武器を確保し爆破すると脅す、あるいは東部方面総監を拘束するかして自衛隊員を集結させて、国会占拠・憲法改正を議決させる計画を提案した。 討議の結果、東部方面総監を拘束する方法を取ることにし、楯の会2周年記念パレードに総監を招いて、その際に拘束する案などが検討された。 6月21日、三島ら4名は、千代田区1丁目1番地の206号室に集合。 三島から、市ヶ谷駐屯地内のを楯の会の体育訓練場所として借用できる許可を得ることに成功した旨が報告された。 そして、総監室がヘリポートから遠いため、拘束相手を長・宮田朋幸1佐に変更することが提案され、全員が賛同した。 7月5日、三島ら4名は、山の上ホテル207号室に集合。 決行日を11月の楯の会例会日にすることに決め、例会後のヘリポートでの訓練中に、三島が小賀の運転する車に武器の日本刀を積んで32連隊長室に赴き、宮田連隊長を監禁する手順を決定した。 同月、三島は官房長官と防衛庁長官に、防衛に関する文書を政府への「建白書」として託したが、中曽根防衛庁長官はそれを閣僚会議で首相に提出しなかった。 7月11日、小賀は三島から渡された現金20万円で中古の式白塗りを久下木モータースから購入した。 7月下旬、三島ら4名は、千代田区4番地ののプールで、決起を共にする楯の会メンバーをもう1人増やすことにし、誰にするか相談した。 この夏、三島は3名それぞれに8万円を渡し、に慰安旅行させた。 この頃、に帰省した森田は、旧知の上田茂に、「三島由紀夫に会って自分の考え方が理論化できた。 だから三島をひとりで死なせるわけにはいかん」と言った。 8月28日、再びホテルニューオータニのプールに集まった三島ら4名は、(第5班副班長)を仲間に加えることを決定した。 9月1日、「憲法改正草案研究会」の帰り、森田と小賀は新宿区3丁目8-1の深夜「パークサイド」に古賀を誘い、「最終計画」を説明して賛同を得た。 2人から、「三島先生と生死をともにできるか」と問われ、「浩ちゃん、命をくれないか」と頼まれた古賀は、楯の会に入会した時からその覚悟ができていたため承諾し、同志に加えてくれたことを感謝した。 9月9日、三島は4丁目のフランス料理店に古賀を招き、計画の具体案を聞かせ、決行日は11月25日だと語った。 三島は、「自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても、自分は死ななければならない」 、「ここまで来たら、の三丁目だよ」と言った。 9月10日、三島と楯の会は陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、上級者のリフレッシャーコースを12日まで行なった。 9月15日、三島、森田、小賀、小川、古賀の5名は、の興風館で行われた会(大会)を見物し、帰途に 1丁目10-2の料理店「」で会食して同志的結束を固めた。 この頃、三島は約4年近く世話になった陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地の機関紙に感謝の言葉と複雑な心境を綴った。 ここでは終始温かく迎へられ、利害関係の何もからまない真の人情と信頼を以つて遇され、ではついに味はふことのない男の涙といふものを味はつた。 私にとつてはここだけが日本であつた。 娑婆の日本の喪つたものの悉くがここにあつた。 日本の男の世界の厳しさと美しさがここだけに活きてゐた。 われわれは直接、自分の家族のを気づかふやうに、日本の運命について語り、日本の運命について憂へた。 (中略)ここは私の鍛錬の場所でもあり、思索の場所でもあつた。 私は、ここで自己放棄の尊さと厳しさを教へられ、との一体化を、との綜合のきびしい本道を教へられた。 (中略)歴代連隊長を始め、滝ヶ原分とん地の方々のすべてに、私は感謝の一語あるのみである。 同時に、二六時中自衛隊の運命のみを憂へ、その未来のみを馳せ、その打開のみに心を砕く、自衛隊について「知りすぎた」男になつてしまつた自分自身の、ほとんど狂熱的心情を自らあはれみもするのである。 — 三島由紀夫「滝ヶ原分屯地は第二の我が家」 9月に宅の夕食会に招かれた三島は、食事後に暗い面持ちで、日本から精神的伝統が失われがはびこってしまったと言い、「 日本は緑色の蛇の呪いにかかっている。 日本の胸には、緑色の蛇が喰いついている。 この呪いから逃れる道はない」という不思議な喩え話をした。 三島は時々予言めいたことを突然発することがあり、春頃にも茶の間で父・梓に日本の未来を案ずる言葉を言っていた。 ある晩、事件の年の春頃でしたか、伜は茶の間で、「日本は変なことになりますよ。 ある日突然米国は日本の頭越しにに接触しますよ、日本はその谷間の底から上を見上げてわずかに話し合いを盗み聞きできるにとどまるでしょう。 わが友はもはやたのむにたらずと、どこかに行ってしまうでしょう。 日本はのとなって、やがての商品に転落するのではないでしょうか。 いまや日本の将来を託するに足るのは、実に十代の若者の他はないのです」と申しました。 これを後で伜のある先輩に話しますと自分もあなたよりずーっと早い四十三年の春に、銀座で食事中にまったく同じ予言を聞かされたものです、と驚いておりました。 — 「伜・三島由紀夫」 9月25日、三島ら5名は、新宿3丁目17番地の会館後楽園に集合。 三島は楯の会例会の招集方法を変更することを提案し、特に11月の例会は、自衛隊関係者を近親や親戚に持つ者を除いた隊員に三島が直接連絡することを決め 、就職や結婚が決まっている者も除いた。 10月初め、死ぬ前に故郷の北海道の山河を見ておきたいと言う古賀のため、三島は旅費の半額1万円を与えた。 10月2日、三島ら5名は、銀座2丁目6-9の中華料理店「第一楼」に集合。 11月の楯の会例会を午前11時に開いて、例会後の市ヶ谷駐屯地のヘリポートでの通常訓練を開始後、三島と小賀が葬儀参列を理由に退席して、日本刀を車に搬入する手筈で32連隊長を拘束するという具体的手順を決定した。 その行動の際、ありのままを報道してもらえる信頼できる記者2名を予めに待機させておき、一緒に車に同乗させ、32連隊隊舎前の車中で待たせることも同時に決定した。 10月9日、北海道旅行中の古賀を除いた4名が「第一楼」に再び集合し、計画を再確認した。 10月17日、三島はを自宅に呼び、1968年(昭和43年)2月25日に作成した血盟状を持って来てほしいと頼み、著名した者の多くが脱退したので焼却したい旨を伝えた。 10月19日、三島ら5名は10月例会の後、千代田区1丁目4番地の東条会館で、楯の会の制服を着用して記念撮影を行なった。 10月23日、都内のや給電指令所で楯の会の演習を行なった。 会員たちは、いよいよ楯の会全員でのクーデターが始まるのだと思ったという。 この訓練後、三島は夜1人で、山本1佐宅を訪ねた。 この日の訪問を山本1佐は、「徳利の別れ」のようなものだったのではないかと回想している。 10月27日、血盟状を、持丸とともに劇団の庭で焼却した。 しかし、持丸はこれを渡す前に、血盟状のコピーを内密にとっておいた。 焼却後、港区の「」でコーヒーを飲みながら三島は持丸に、「お前がやめた後、会の性格が変わったよ。 これから(来年から)は会のかたちを変えようと思う。 お前も、会のことはよく知っているので、外部からひとつ応援してくれよ」と言ったという。 11月3日、三島、森田、小賀、小川、古賀の5名は「アマンド」で待ち合わせ、六本木4丁目5-3のサウナ「ミスティー」に集合。 檄文と要求項目の原案を検討した。 この時、全員するという計画を三島は止めさせ、「死ぬことはやさしく、生きることはむずかしい。 これに堪えなければならない」と小賀、小川、古賀の3名に命じた。 三島は、「今まで死ぬ覚悟でやってきてくれた、その気持は嬉しく思う。 しかし、生きて連隊長を護衛し、連隊長を自決させないように連れて行く任務も誰かがやらなければならない。 その任務を古賀、小賀、小川の3人に頼む、森田は介錯をさっぱりとやってくれ、余り苦しませるな」と言った。 森田は、「俺たちは、生きているにせよ死んで行くにしろ一緒なんだ、またどこかで会えるのだから」、「(われわれは一心同体だから)ではひとつになるんだ」と言った。 三島は前日の11月2日、銀座の「浜作」に森田を呼び出し、「森田、お前は生きろ。 お前は恋人がいるそうじゃないか」と自決を止めるように説得していた。 しかし森田は、「親とも思っている三島先生が死ぬときに、自分だけが生き残るわけにはいきません。 先生の死への旅路に、是非私をお供させて下さい」と押し切った。 その後、小賀、小川、古賀の3名も、「お前も一緒に生きて先生の精神を継ごう」と説得し、三島も森田が自決を思い止まることを期待したが、森田の決心は揺るがなかった。 11月4日、三島と楯の会は陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、上級者のリフレッシャーコースを、6日まで行なった。 会員たちは、この時に爆破の訓練を受け、爆弾の設置方法などを教わった。 実際に線路を爆破して、爆音と共に線路が粉々になるのを見学した。 訓練終了後、三島ら5名は、内の御殿場館別館で開かれた慰労会で、他の会員や自衛隊員らと密かに別離を惜しみ、三島は全員に正座をして酒をついで廻って、「」を歌い、森田は小学唱歌「」と「」、小賀は「白い花が咲くころ」、小川は「昭和維新の歌」「」を歌い、古賀は員の詩を朗読した。 11月10日、森田、小賀、小川、古賀の4名は、菊地勝夫との面会を口実に、市ヶ谷駐屯地に入り、32連隊隊舎前を下見して駐車場所を確認した。 11月12日、森田、小川、小賀の3名は、で開催された「三島由紀夫展」を見学。 その夜、スナック「パークサイド」で、小川は森田から介錯を依頼されて承諾した。 11月14日、三島ら5名は、サウナ「ミスティー」に集合。 32連隊隊舎前で待機させる記者2名をNHK記者・と記者・にし、と記念写真を決起当日に渡す主旨の説明が三島からなされ、5名で檄文の原案を検討した。 11月19日、三島ら5名は、伊勢丹会館後楽園サウナ休憩室に集合。 32連隊長を拘束した後の自衛隊の集合までの時間や、三島の演説などの時間配分を打ち合わせした。 森田が「要求が通らない場合は連隊長を殺しても良いか」と訊ねると、「無傷で返さなければならない」と三島は答えた。 その後、スナック「パークサイド」で、古賀は森田から、「俺の介錯をしてくれるのは最大の友情だよ」と言われた。 11月21日、決行当日の11月25日に32連隊長の在室の有無を確認するため、森田が三島の著書『』を届けることを口実に市ヶ谷駐屯地に赴くと、当日に宮田朋幸32連隊長が不在であることが判明した。 三島ら5名は、中華「第一楼」に集合。 森田の報告を受け協議の結果、拘束相手を、東部方面総監に変更することに決定した。 三島はすぐに東部方面総監に電話を入れ、11月25日午前11時に面会約束をとりつけた。 同日と翌11月22日、森田ら4名は三島から4千円を受け取り、などにおいて、、構築の際に使う針金、ペンチ、垂れ幕用のキャラコ布、気つけ用の、水筒などを購入した。 夜、小賀は横浜市内を森田とドライブ中、「三島の介錯ができない時は頼む」と森田から依頼されて承諾した。 11月23日、三島ら5名は、千代田区1丁目1番地の519号室に集合。 決起の最終準備(垂れ幕、檄文、鉢巻、など)と、一連の行動の予行演習を行なった。 辞世の句は「うまくなくてもいい、自由奔放に書け」と三島は言った。 翌11月24日も、三島ら5名はパレスホテルに集合。 再度の予行演習をし、前日と合わせて約8回練習を行なった。 同日の昼14時頃、三島は徳岡孝夫と伊達宗克に、「明日午前11時にとを持ってくること、明日午前10時にまた連絡する」という主旨の電話をし 、15時頃には、の担当編集者・に明日朝10時30分に『』の原稿を自宅に取りに来るように電話を入れた。 夕方16時頃から、三島ら5名は、2丁目15-7の料亭「」の奥の間(五番八畳)で鳥鍋料理の「わ」のコース(1人15,000円)と7本で別れの会食をした。 18時頃、お店の豊さん(赤間百合子)がお酌をしようとすると、三島は自分でビールをつぎ、最後の乾杯をした。 食事中は明日の決起のことは話さず、映画女優や三島が映画『』で共演した俳優のの話などの雑談をした。 三島は、「いよいよとなるともっとセンチメンタルになると思っていたがなんともない。 結局センチメンタルになるのは我々を見た第三者なんだろうな」と言った。 食事が終わった20時頃、一同は店を出て、小賀の運転する車で帰宅。 車中三島は、「総監は立派な人だから申し訳ないが目の前で自決すれば判ってもらえるだろう」と言った。 また、もしも総監室に入る前に自衛隊員らに察知され捕まった場合は、5人全員でを噛んで死ぬしかないとも話した。 4丁目32-8の自宅に帰宅した三島は、22時頃に自宅敷地内の両親宅に就寝の挨拶に行き、父親から煙草の吸い過ぎをたしなめられた。 森田は西新宿4丁目32-12の小林荘8号室の下宿に帰宅後、同居する楯の会会員の田中健一を誘って、近くの食堂「三枝」に行き、例会の市ヶ谷会館で徳岡孝夫と伊達宗克に渡すべき封書2通を託した。 小川と古賀は、小賀の1丁目498番地の大早館の下宿に宿泊した。 その際に3人は介錯のことを話し合い、小川は、経験豊富な小賀に、森田の介錯ができない場合の代わりを依頼し、小賀は承諾した。 しかし3人の間では、介錯は予定者が実行できない時には、三島、森田を問わずに、残りの誰かが介錯するという意思であった。 11月25日、小賀ら3名は午前7時に起床。 古賀は森田に「起こしてくれ」と頼まれていたため、森田の下宿の廊下にあるを鳴らした。 3名は、朝食は取らず、目立たぬように制服の上からコートやカーディガンを羽織って、制帽はビニールの買物袋に入れ、午前8時50分頃、小賀の運転するコロナに同乗し下宿を出発した。 森田は7時に起床し、9時頃、新宿西口公園付近ので、コロナでやって来た小賀ら3名と合流した。 一行は三島邸に向い、を出て、三島邸近くのを曲がったあたりのに立ち寄って洗車。 その間に各人故郷の家族への別れの手紙を投函した。 三島は8時に起床し、コップ一杯の水だけを飲み、お手伝いさんに小島喜久江に渡す小説原稿を預けた。 10時頃、徳岡孝夫と伊達宗克に電話を入れ、市ヶ谷会館に午前11時に来るように指定し、田中か倉田という者が案内すると伝えた。 小賀の運転するコロナに同乗した一行が10時13分頃に三島邸に到着した。 三島は玄関に迎えに来た小賀に、小川、古賀ら3名宛ての封筒入りの命令書と現金3万円ずつを手渡し、車中で読むように命じた。 軍刀仕様にした日本刀・関孫六と革製アタッシュケースを提げ、車までゆっくりと歩いた三島は、「命令書はしかと判ったか」と助手席に乗り込み、「命令書を読んだな、おれの命令は絶対だぞ」、「あと3時間ぐらいで死ぬなんて考えられんな」などと言った。 一行を乗せたコロナは自衛隊市ヶ谷駐屯地へ向かった。 秋晴れの空の下、白いコロナはに出て、第二京浜国道に入り、からを経て、荏原ランプからに乗った。 10時40分頃、コロナはで高速を降りた。 からを経て前に出たが、まだ時間が早かったため外苑を2周した。 古賀は、「私たちに辛い気持や不安を起させないためだったのだろうか。 まず先生が歌いはじめ、4人も合唱した。 歌ったあと、なにかじーんとくるものがあった」と供述している。 から、右に、左にを見て進行し、校舎近くに一時停車した時、「我が母校の前を通るわけか。 俺の子供も現在この時間にここに来て授業をうけている最中なんだよ」と三島は言った。 コロナはの交差点を直進し、を突っ切り、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の正門に入っていった。 決起に至った要因 [ ] 自衛隊員たちへ撒いたには、との批判、そして体制化での自衛隊の存在意義を問うて、決起およびによる自衛隊の化を促す内容が書かれていた。 三島は最初の単身自衛隊体験入隊直後の1967年(昭和42年)5月27日の時点では、〈いまの段階では憲法改正は必要ではないといふ考へに傾いてゐます〉と公けのインタビュー向けには応えながらも、以下のように述べている。 私は、私の考えがでもなければ、でもないと信じています。 私が望んでいるのは、国軍を国軍たる正しい地位に置くことだけです。 国軍と国民のあいだの正しいバランスを設定することなんですよ。 (中略) 政府がなすべきもっとも重要なことは、単なる安保体制の堅持、安保条約の自然延長などではない。 集団保障体制下におけるアメリカの防衛力と、日本のの独立的な価値を、はっきりわけてPRすることである。 — 三島由紀夫「三島帰郷兵に26の質問」 さらに三島は、〈いまの制度がそうさせるのか、のお気持がそうさせるのか知らないが、外国使臣をで迎えるときに陛下がわきに立って自衛隊のを避けられるということを聞いたとき、私は、なんともいえない気持がしました〉とも述べている。 また1967年(昭和42年)11月のとの対談では、の憲法への苦心を尊重しながらも、自分は憲法に対して〈現実主義の立場に立ちたい〉が、〈現状肯定主義〉ではあってはならないと思うとし、このままを改正しないまま〈解釈〉で〈縄抜け〉するという論理的なトリックに三島は疑問を呈しつつ、〈ぼくはもっと憲法を軽蔑している〉と述べ 、憲法改正への法的手続(国会の三分の二と、過半数の国民投票という二段構え)のハードルの高さに言及しながら、憲法第9条がクーデターでしか変えられないと語っている。 このように、日本国憲法第9条の第2項がある限り、自衛隊は〈違憲の存在〉でしかないと見ていた三島は、『檄文』や『問題提起』なかで、の第9条第2項に対する解釈や、やが日米安保破棄を標榜しつつも第9条護憲を堅持するという矛盾姿勢を、〈日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因〉をなしているものと見て、両者のをないがしろにする姿勢を批判している。 演説の中でも、自衛官らに、〈諸君はだろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ〉と絶叫し、ばらまいた『檄文』のなかで〈のみで、は死んでもよいのか。 生命以上の価値なくして何の軍隊だ。 今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。 それはでもでもない。 日本だ。 われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ〉と訴えた。 三島の自決の決心に影響を与えた動因の一つには、自決前年のに、前で「覚醒書」なる遺書を残して世を警め同胞の覚醒を促すべくした青年、の自決もあった。 三島は『』において、〈私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」といふものに、夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である〉と記しており、この青年の至誠と壮絶な死が三島の出処進退に及ぼしていた心情が看取されている。 三島の自殺には様々な側面から諸説が挙げられ、その要因の一つとして、三島が少年時代にの夭折に憧れていたことなどや 、『』で副主人公・本多の老醜を描いていることなどから、自身の「老い」への忌避が推察される向きもある。 の担当編集者だったによると、『豊饒の海』執筆中に「年をとることは滑稽だね、許せない」、「自分が年をとることを、絶対に許せない」と三島が言っていたことがあるとされる。 また月刊誌『』の編集長であったによると、三島は、「自分がみたいな老人になるところを想像できるか?」と言ったとされ(なお、三島と荷風とは系図上では遠戚関係にある)、その一方で、「作家はどんなにをやっても世の中の人は自己表現だと思うからな」とも言ったという。 しかし、三島の老いへの考えは一面的ではなく、〈自分の顔と折合いをつけながら、だんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。 六十か七十になれば、いい顔だと云つてくれる人も現はれるだらう〉とも述べており 、〈氏の晩年は立派で、実に艶に美しかつたが、その点では日本に生れて日本人たることは倖せである。 老いの美学を発見したのは、おそらく中世の日本人だけではないだろうか。 (中略)でも、五十歳の選手といふものは考へらないが、七十歳の八段は、ちやんと現役の実力を持つてゐる〉とも語っている。 小島千加子にも以前には、「、などは、年をとって精神の美しさが滲み出て来た良い例」とも言っていたという。 1969年(昭和44年)3月の第3回自衛隊体験入隊時の学生と雑談でも、「由紀夫」という名前は若すぎる名前だから、年を取ったら(沙吉比亜)の尊称の「沙翁」にあやかって「雪翁」にするつもりだと言い、「えっ、先生は若くして死ぬんじゃないんですか」と学生が驚いて質問すると、三島は苦虫を噛み潰したような渋い表情に変わって横を向いてしまったという。 このことから、44歳の時点では、作品外の実人生では長生きするつもりだったとも見られている。 なお、三島にはヒロイズムつまり的に対する憧れがあることがエッセイなどから散見され、それも要因の一つに数えられる。 三島は、1967年(昭和42年)元旦に『年頭の迷い』と題して新聞に発表した文章で、〈は五十歳で英雄として死んだし、この間へ行つてを調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げたが、私と同年で死んだといふ発見であつた。 私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ〉と述べている。 また、『』のなかでは、以下のように語っている。 かつて太陽を浴びてゐたものが日蔭に追ひやられ、かつて英雄の行為として人々の称賛を博したものが、いまや近代の見地から裁かれるやうになつた。 (中略)会社の社長室で一日に百二十本も電話をかけながら、ほかの商社と競争してゐる男がどうして行動的であらうか? へ行つて後進国の住民たちをだまし歩き、会社の収益を上げてほめられる男がどうして行動的であらうか? 現代、行動的と言はれる人間には、たいていそのやうな俗社会のかすがついてゐる。 そして、この世俗の垢にまみれた中で、人々は英雄類型が衰へ、死に、むざんな腐臭を放つていくのを見るのである。 青年たちは、自分らがかつてのから学んだ英雄類型が、やがて自分が置かれるべき未来の社会の中でむざんな敗北と腐敗にさらされていくのを、焦燥を持つて見守らなければならない。 そして、英雄類型を滅ぼす社会全体に向かつて否定を叫び、彼ら自身の小さな神を必死に守らうとするのである。 — 三島由紀夫「」 そして、壮絶な死に美を見出すという傾向は、のを好きだと語っていることなどからうかがえ 、に対する官能的な嗜好やこだわりも、自身が映画制作した小説『』や、榊山保名義でに発表した小説『』から看取される。 切腹について三島と語り合ったことのある中康弘通は、切腹に興味を持つ傾向の人々は男女問わず、「切腹の持つ精神的伝統、すなわち儀式的厳粛と崇高なの悲愴美を、の心に刻みつけて以来、条件反射のように、愛と死の両極を結ぶ媒体として、切腹の意義を把握している」とし 、そういった人々でも、自殺に切腹を選ぶ人はあっても、「切腹したいから自殺する人は、まず無い」と解説している。 なお、三島は1970年(昭和45年)付の夕刊の戦後25周年企画「私の中の25年」に、『』というエッセイを寄稿し、その中で、自身の戦後25年の〈空虚〉を振り返り、それを〈鼻をつまみながら通りすぎた〉とし、以下のようにその時代について語っている。 二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。 生き永らへてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。 それはとそこから生ずる偽善といふおそるべきである。 こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終はるだらう、と考へてゐた私はずいぶん甘かつた。 おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。 政治も、経済も、社会も、文化ですら。 — 三島由紀夫「」 三島はその戦後民主主義を否定しつつも〈そこから利益を得、のうのうと暮らして来たといふことは、私の久しい心の傷になつてゐる〉と告白し、多くの作品を積み重ねても、自身にとっては〈排泄物を積み重ねたのと同じ〉で、〈その結果賢明になることは断じてない。 さうかと云つて、美しいほど愚かになれるわけではない〉として最後の一節では以下のような訣別を表明している。 この文章は、実質的なの一つとして、以降の三島研究や三島事件論において多く引用されている。 二十五年間にを一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。 これだけのエネルギーをに使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。 このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。 日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、な、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国がの一角に残るのであらう。 それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。 また、三島の自決への要因の一つとして欠かせないものには、三島の少年期における文学の師であり、精神的支柱の一人でもあったが敗戦に際し、護持を念じてピストル自決をとげたことの影響がある (詳細はを参照)。 1945年(昭和20年)、戦地ので蓮田は、中条豊馬大佐が軍旗の決別式で天皇を愚弄した発言(敗戦の責任を天皇に帰し、の前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた)に憤怒し、大佐を射殺し自身も自害した。 三島は翌年11月17日に素心寮で行われた「蓮田善明を偲ぶ会」で、哀悼の詩を献じた。 三島と同じ戦中世代であり知人であったは、三島が生涯かけて取り組もうとした課題の基本にあるものは、「戦争に死に遅れた」事実に胚胎しているとし、終戦の時、満20歳であった三島を鑑みて、次のように考察している。 出陣する先輩や日本浪漫派の同志たちのある者は、直接彼に後事を託する言葉を残して征ったはずである。 後事を託されるということは、戦争の渦中にある青年にとって、およそ敗戦後の復興というような悠長なものにはつながらず、自分もまた本分をつくして祖国に殉ずることだけを純粋に意味していた。 (中略) われわれ戦中派世代は、青春の頂点において、「いかに死ぬか」という難問との対決を通してしか、「いかに生きるか」の課題の追求が許されなかった世代である。 そしてその試練に、馬鹿正直にとりくんだ世代である。 (中略)戦争が終ると、自分を一方的な戦争の被害者に仕立てて戦争と縁を切り、いそいそと古巣に帰ってゆく、そうした保身の術を身につけていない世代である。 三島自身、律義で生真面目で、妥協を許せない人であった。 — 「三島由紀夫の苦悩」 1992年4月から1994年1月までの1年8か月日本に滞在していたというのM. シャルマは、三島の行動について、「彼(三島)は小説家としてこの世でありとあらゆる栄光を手に入れたが、戦時に自分が〈兵隊にならなかった〉というコンプレックスから逃れることはできなかった。 兵役を逃れたことは男児としての証明に欠けるだけでなく、彼にとって、民族の一人としての資格に欠けることだったのだろう。 この劣等感は、名声を手に入れれば入れるほど、彼の心に強く自嘲の念を与えたのにちがいない」と述べている。 は、三島がの隊内誌『たきがはら』に寄せた一文の中で自分のことを、〈自衛隊について「知りすぎた」男になつてしまつた〉 と言っていたことに触れつつ、「じっさい〈知りすぎた〉三島は、『檄』にも書きとめた通り、〈アメリカは眞の日本の自主的軍隊が日本の國土を守ることを喜ばないのは自明である〉という自衛隊の本質を見抜いていたがゆえに、自衛隊の今日ある姿を予見することができたのだろう」と述べ、杉山自身も実際に体験して悟った自衛隊観と重ねて以下のように分析している。 隊員ひとりひとりが訓練や任務の最前線で小石を積み上げるようにどれほど地道でひたむきな努力を重ねようとも、アメリカによってつくられ、いまなおアメリカを後見人にし、アメリカの意向をうかがわざるを得ない、すぐれて政治的道具としての自衛隊の本質と限界は、戦後二十年が六十余年となり、世紀が新しくなっても変わりようがないのである。 (中略) 私が十五年かけて思い知り、やはりそうだったのか、と自らに納得させるしかなかったことを、三島は四年に満たない自衛隊体験の中でその鋭く透徹した眼差しの先に見据えていた。 もっとも日本であらねばならないものが、戦後日本のいびつさそのままに、根っこの部分で、日本とはなり得ない。 三島の絶望はそこから発せられていたのではなかったのか。 表現しても、表現しても、その表現力が厚い壁によって妨げられる時、を擲って死ぬほかはない」という見解を示した。 は、三島が『』のような論文を書き、そうした「を支えるべく言葉の伽藍」を小説において創作しながら、その一方で「の帝王としてのポジション」を作っていった理由は、反対全盛の時代にイデオロギーをストレートに出しても全面的に支持が得られるはずもないため、民主主義的に支持を取りつけなければならなかったからだと考察し 、それは「戦後民主主義の守護神」という位置を占めるようになった「戦後のそのものの隠喩」を、三島自らが体現しようとしたのではないかと述べている。 そしてそのやり方は、のようにがにかかわるという方向ではないが、「一人で三島党みたいなものの勢力を伸ばしていく手口」であり、三島の意識の中でイデオロギーと「有機的に矛盾なく結びついていたのかもしれないという意味での政治」なのだと論じている。 また島田は、今日のが、「この日本を変えるとか、日本の政治を変えるという政治的な野心」から遠く離れてしまったことに触れつつ、以下のような見解を述べている。 今の時点の後学で、三島のやったことをとらえ直そうとすれば、もともとは政治に敗北したもののジャンルであるとも言われていた文学に深くコミットしながら、しかしそれでも、文学サイドから政治への的コミット、文学のが社会の革命になるということをどこかで信じていたのではないか。 むろんそれは非常に難しい。 かつてのの担い手たちや、の担い手たち、共産主義運動にコミットした文学者たちが抱いていた理想主義は持ち得なかったかもしれないけれども、苦い現実認識を伴いつつ、過去の文学者と政治のかかわり方の一変形を三島に認めるのは可能かもしれない。 — 島田雅彦「三島由紀夫不在の三十年」 は、三島が遺稿『壮年の狂気』の中で 、〈現代一般の政治家・・はそれほど正気であり、それほど児戯から遠くにゐるだらうか〉と「」に触れながら反問し、〈狂気の問題提起は、正気だと思つてゐる人間の狂気をあばくところにある〉と記していたことを挙げながら、「実際〈檄〉の指摘するもいまだに解決をみず、現憲法はいわばであり、三島事件は、内外の情勢に照らし、改憲の不可能を見極めた故に、自ら〈文化〉を体現しつつ、〈政治〉と刺違えた象徴的行動だった」と考察している。 は、三島のなかに、「戦後の安定した社会のなかで風化をつづける文化状況への反発、戦後国家のはんでいる矛盾への挑戦」があり、それが「時代の価値観に逆行する道を行く動因の一つ」になったと述べている。 そして、その小説家の生涯がたとえ「三島由紀夫」という名の「劇」であったとしても、「その仮面のそなえていた妥協を知らない歩み」は、三島が唱えた政治思想の評価に多くの批判や問題が残されているにせよ、「その芸術上の豊かな達成とともに、人間の精神的価値を証明しようとする誠実な試みの一つであった」として、「自身の行為を時代へのと意識していた三島は、その評価をのこされた人びとにゆだねたのである」としている。 死後46年経った(平成29年)1月に初公表されたとの対談(自死の9か月前の1970年2月19日に実施)で三島は、〈死がね、自分の中に完全にフィックスしたのはね、自分の肉体ができてからだと思うんです。 (中略)死の位置が肉体の外から中に入ってきたような気がする〉、〈平和憲法です。 あれが偽善のもとです。 (中略)憲法は、日本人に死ねと言っているんですよ〉と自身の死生観や文学や憲法について触れ、行動については自身を〈〉に喩え、後世に理解を委ねるかのような以下の発言をしている。 僕がやっていることが写真に出ます。 あるいは、週刊誌で紹介されます。 それはその段階においてみんなにわかるわけでしょう。 ああ、あいつはこんなことをやっている、バカだねえ、と。 でも、その「バカだねえ」ということを幾ら説明しても、僕をバカだと思った人はバカだと思い続けます。 (中略)ですから、僕は、じゃないけれども、happy few がわかってくれればいいんです。 僕にとっては、僕の小説よりも僕の行動の方が分かりにくいんだ、という自信があるんです。 (中略) 僕が死んでね、50年か100年たつとね、「ああ、わかった」という人がいるかもしれない。 それでも構わない。 生きているというのは、人間はみんな何らかの意味でです。 これは免れない。 でもやっぱり一種のピエロですね。 生きている人間がピエロでないということはあり得ないですね。 人間がピエロというのは、ある意味で芝居をやらなくちゃ生きていけない。 (ジョン・ベスターの問い) 芝居をやらなきゃ生きていけないのは、きっとが我々を人形に扱っているわけでしょう。 我々は人生で一つの役割を、puppet play(・プレー)を強いられているんですね。 — 三島由紀夫「ジョン・ベスターとの対談」(1970年2月) 裁判での陳述など [ ] 生き残った3人への公訴は、嘱託殺人、傷害、監禁致傷、暴力行為、など刑事訴訟法の枠内の外形的なものに留まり、改憲論議については、法廷自体意見を左右し、支援団体(全国学協、、11・25義挙正当裁判要求闘争実行委員会など)が三島の論文『問題提起』を提出したにもかかわらず、弁護団も「現行憲法の批判は司法裁判所の関与するところではない」として証拠物件とはしなかった。 大越護弁護人は最終弁論で、「国家のためにする緊急救助の法理」の適用を主張したが、櫛淵理裁判長は、「国家公共機関の有効な公的活動を期待しえないだけの緊急な事態が存在していたとは到底認められない」として被告らは懲役4年の実刑となった。 なお、被告らの裁判中の陳述などは以下のものである。 小賀正義 「いまの世の中を見たとき、薄っぺらなことばかり多い。 真実を語ることができるのは、自分の生命をかけた行動しかない。 先生(三島)からこのような話を聞く以前から、自分でもこう考えていた。 憲法はが英文で起草した原案を押しつけたもので、欺瞞と偽善にみち、屈辱以外のなにものでもない。 (中略)日本人の魂を取戻すことができるのではないかと考え、行動した。 しかし、社会的、政治的に効果があるとは思わなかった。 三島先生も『多くの人は理解できないだろうが、いま犬死がいちばん必要だということを見せつけてやりたい』と話されていた。 われわれは者ではない。 永遠に続くべき日本のの地位を守るために、日本人の意地を見せたのだ」 「天皇の地位は、天皇が御存在するが故に、歴史的に天皇なのであって、やを選ぶように多数決で決まるものではないのです。 菊は菊であるからこそ菊なのであって、どのようにしてもバラにすることはできないのと同様に、天皇を選挙やそれに類するもので否定することはできないのです。 それなのに(国民の)『総意に基づく』とあるのは現行憲法が西洋の概念を誤って天皇に当てはめ、天皇が国民と対立するヨーロッパの暴君のように描き出したアメリカの日本弱化の企みです。 それ故、現行憲法を真に日本人と自覚するならば黙って見過ごすわけにはできないはずです。 三島先生と森田大兄の自決は、この失われつつある大義のために行なった至純にして至高、至尊な自己犠牲の最高の行為であります。 『死』は文化であるといった三島先生の言葉は、このことを指していたのではないかと思います」 小川正洋 「自衛隊が治安出動するまでの空白を埋めるのが、楯の会の目的だった。 国がみずからの手で日本の文化と伝統を伝え、国を守るのを憲法で保障するのは当然である」 「三島先生の『は理論でなく心情だ』という言葉はとてもうれしいものでした。 自分は他の人から比べれば勉強も足りないし、活動経験も少ない。 しかし、日本を思う気持だけは誰にも負けないつもりだ。 三島先生は、如何なるときでも学生の先頭に立たれ、訓練を共にうけました。 共に泥にまみれ、汗を流して雪の上をほふくし、その姿に感激せずにはおられませんでした。 これは世間でいう三島の道楽でもなんでもない。 また、文学者としての三島由紀夫でもない。 『左翼は積み重ね方式だが我々は違う。 我々はぎりぎりの戦いをするしかない。 後世は信じても未来は信じるな。 未来のための行動は、文化の成熟を否定するし、伝統の高貴を否定する。 自分自らを、歴史の精華を具現する最後の者とせよ。 (中略)とは死ぬことと見つけたりとは、朝起きたらその日が最後だと思うことだ。 だから歴史の精華を具現するのは自分が最後だと思うことが、武士道なのだ』と教えてくださいました。 (中略)私達が行動したからといって、自衛隊が蹶起するとは考えませんでしたし、世の中が急に変わることもあろうはずがありませんが、それでもやらねばならなかったのです」 古賀浩靖 「戦後、日本は経済大国になり、物質的には繁栄した反面、精神的には退廃しているのではないかと思う。 思想の混迷の中で、個人的享楽、利己的な考えが先に立ち、の美名で日本人の精神をむしばんでいる。 (中略)その傾向をさらに推し進めると、日本の歴史、文化、伝統を破壊する恐れがある。 (中略)この状況をつくりだしている悪の根源は、憲法であると思う。 現憲法はのの下でつくられたもので、で形式的に独立したとき、無効宣言をすべきであった」 「現実には、日本にとって非常にむずかしい、重要な時期が、曖昧な、呑気なかたちで過ぎ去ろうとしており、現状維持の生温い状況の中に日本中は、どっぷりとつかって、これが、将来どのような意味を持っているかを深く、真剣に探ることなく過ぎ去ろうとしていたことに、三島先生、森田さんらが憤らざるを得なかったことは確かです」 「狂気、気違い沙汰といわれたかもしれないが、いま生きている日本人だけに呼びかけ、訴えたのではない。 三島先生は『自分が考え、考え抜いていまできることはこれなんだ』と言った。 最後に話合ったとき、『いまこの日本に何かが起こらなければ、日本は日本として立上がることができないだろう、社会に衝撃を与え、亀裂をつくり、日本人の魂を見せておかなければならない、われわれがつくる亀裂は小さいかもしれないが、やがて大きくなるだろう』と言っていた。 先生は後世に託してあの行動をとった」 大越護弁護人 「まれにみる鋭敏な頭脳の持主である三島の脳裏には、この美しい日本が、ガラガラと音をたてて崩れてゆく姿が、捉えられていたに違いない。 三島の畢生の大作『』これと同名の月の海は、その名の華麗さに似ず、死の海であり、廃墟の世界である。 これと同様、三島の脳裏には、経済的には益々豊かになる日本が、精神的には月の海のように荒廃してしまうのが映っていた。 われわれは、その危機の一つを最近、で示された。 あの事件こそ、道義が根底から失われていることを、最も端的に示すものである。 どうしたらこの事態を動かし得るか、氏は死をもって諌める道を選んだ』と書いている。 こうして、三島と森田は、割腹自決をし、社会を覚醒させようとした」 三島の遺書 [ ] 三島が会員・倉持清(1期生、第2班班長)に宛てた遺書は、事件の日の夜に、瑤子夫人から倉持清に手渡された。 倉持は、決起した会員4名同様に三島から信頼されていた人物であった。 三島は倉持からを依頼され快諾していたために、〈蹶起と死の破滅の道へ導くこと〉、〈許婚者を裏切つて貴兄だけを行動させること〉は不可能だったことを伝え、人生を生きてもらいたいことを遺言した。 小生の小さな蹶起は、それこそ考へに考へた末であり、あらゆる条件を参酌して、唯一の活路を見出したものでした。 活路は同時に明確なを予定してゐました。 あれほど左翼学生の行動責任のなさを弾劾してきた小生としては、とるべき道は一つでした。 それだけに人選は厳密を極め、ごくごく少人数で、できるだけを少なくすることを考へるほかはありませんでした。 小生としても楯の会会員と共にのために起つことをどんなに念願し、どんなに夢みたことでせう。 しかし、状況はすでにそれを不可能にしてゐましたし、さうなつた以上、非参加者には何も知らせぬことが情である、と考へたのです。 小生は決して貴兄らを裏切つたとは思つてをりません。 (中略)どうか小生の気持を汲んで、今後、し、し、旺洋たる人生の波を抜手を切つて進みながら、貴兄が真の理想を忘れずに成長されることを念願します。 — 三島由紀夫「倉持清宛ての封書」(昭和45年11月) この倉持への封書と共に同封されていた楯の会会員一同宛ての遺書は、事件翌日11月26日にの聖徳山諦聴寺で営まれた森田必勝の通夜の席で、皆に回し読みされた。 これを読んだ会員たちは、残された者への三島の思いやりが伝わってきたと回想している。 たびたび、諸君の志をきびしい言葉でためしたやうに、小生の脳裡にある夢は、楯の会会員が一丸となつて、義のために起ち、会の思想を実現することであつた。 それこそ小生の人生最大の夢であつた。 日本を日本の真姿に返すために、楯の会はその総力を結集して事に当るべきであつた。 (中略)革命青年たちの空理空論を排し、われわれは不言実行を旨として、武の道にはげんできた。 時いたらば、楯の会の真価は全国民の目前に証明される筈であつた。 しかるに、時利あらず、われわれが、われわれの思想のために、全員あげて行動する機会は失はれた。 日本はみかけの安定の下に、一日一日のとりかへしのつかぬ症状をあらはしてゐるのに、手をこまぬいてゐなければならなかつた。 もつともわれわれの行動が必要なときに、状況はわれわれに味方しなかつたのである。 (中略) 日本がの淵に沈んでも、諸君こそは、の魂を学び、武士の錬成を受けた、最後の日本の若者である。 諸君がを放棄するとき、日本は滅びるのだ。 私は諸君に、男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた。 一度楯の会に属したものは、日本男児といふ言葉が何を意味するか、終生忘れないでほしい、と念願した。 に於て得たものこそ終生の宝である。 決してこれを放棄してはならない。 — 三島由紀夫「楯の会会員たりし諸君へ」(昭和45年11月) その他 [ ] 三島は自決1週間前の11月18日夜に、大田区南馬込の自宅でによる1時間余りの対談インタビューに応じた。 この時、話題が楯の会に及ぶと〈いまにわかります〉と2、3度繰り返し、古林が『』の次の今後の予定を聞くと、〈いまのところ、次のプランは何もないんです〉と語った。 古林はこの日のことを振り返り、三島が、「ほんとうに、なんにも、予定がない」と言った時の顔を、「あれほど淋しそうな顔を、私はみたことがない」と語り、三島が「敗戦より妹の死のほうが、ショックだったと書いたのは、ウソで、敗戦は非常にショックだったのです。 どうしていいのかわからなかった」とも言っていたと回想している。 事件に参加したの父親は事件当時、「」本部の講師をし、古賀自身も入信していた。 出所後に古賀に会ったという元楯の会の会員の伊藤邦典が、「あの事件で、何があなたに残ったか」を訊ねると、古賀はただ掌を上に向けて、何かの重さ(三島と森田の首の重さ)を持つようにしてじっとそれを見詰めていただけだったという。 このことにつき平岡瑤子は、同年末に行われたとによるインタビューで、「フォト・ジャーナリズムのこのたびの行為は、(の)です。 晒し首は死刑以上の刑罰であることを、あの雑誌の編集に携った人々は、ご存じなのでしょうか」と述べた。 市谷記念館でツアーガイドをしていた女性によると、東部方面総監室(旧陸軍大臣室)から天皇陛下の御休憩所(旧の間)に向かって両部屋の前の廊下を移動して行く三島と森田必勝のと思われる「黒い影」を見たことがあるという。 (昭和24年)に発生したでは、三島事件に影響を受けて1971年(昭和46年)に真犯人が名乗り出たため、で懲役囚になっていた人物は、後にが開かれ無罪判決となった。 俳優のが三島事件に触発され、三島の映画を製作する予定だったという。 高倉健と親しかったによると、具体的プランも煮詰まり、高倉健はへ何度も渡航していたとされ、「次第に健さんのなかに三島さんが乗り移っていくかのようで、僕は三島さんの霊が高倉健さんに映画を作らせようとしているのだなと感じていました」と横尾は述懐している。 ところが土壇場で瑤子未亡人の了解が得られず映画製作を断念せざるを得なくなくなった。 仕方なく高倉健は横尾に電話してきて、に一緒の墓参りに行きましょうと誘い、「を持ってきて下さい。 一緒に撮りましょう」と言ったという。 三島事件前後の日本に関する社会的出来事 [ ]• 2月11日 初の。 1967年2月28日 三島由紀夫、、、が中国のに抗議声明。 1967年4月15日 にが当選。 1967年6月17日 中華人民共和国が初の実験。 1967年11月 首相・大統領の会談。 ・などの問題に関する日米共同声明()。 が首相官邸前で焼身自殺。 1月 アメリカが入港()。 1968年1月9日 選手・自衛官のが自殺。 1968年2月20日-24日 による。 1968年3月 反系学生が東大を占拠し、卒業式が中止()。 1968年3月 容疑者・航空幕僚監部防衛課長の1佐逮捕、上司の空将補自殺。 1968年10月17日 が受賞決定。 1968年10月21日 に約30万人参加()。 1968年11月4日-12日 による。 1968年12月10日。 1968年は各地で(、)、、デモが激化。 1月18日-19日。 の入試が中止。 1969年2月11日 自衛官が遺書「覚醒書」を残し焼身自殺。 1969年10月21日 国際反戦デーに全国で約87万人が参加()。 1969年11月 佐藤栄作首相がのため渡米。 日米共同声明()。 1969年11月15日 作家・翻訳家のが病没。 1969年は沖縄返還闘争、運動が昂揚。 学園紛争が激化。 2月3日 日本が(NPT)に署名。 1970年3月14日-9月13日 でが開催。 1970年3月31日 による。 1970年5月13日-14日。 1970年6月23日 自動延長決定。 1970年7月14日 「日本の呼称」=「ニッポン」が閣議決定。 1970年8月19日。 1970年9月 教授が病の原因をキノホルムと断定。 1970年10月 佐藤栄作が自民党総裁選で4選し内閣を続投(自民党史上唯一の4選での選出)。 1970年11月22日 ジャーナリスト・作家のが病没。 1970年11月25日 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で三島事件。 1970年12月20日 沖縄中部の(現:)で。 1月24日 で三島由紀夫の本葬。 1971年1月29日 (米国)。 1971年2月22日-3月6日、9月16日-9月20日• 1971年6月17日 調印。 1971年7月 が日本にも極秘で訪中。

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三島由紀夫が警戒したもの。それはまさしく安倍晋三的な「言葉の軽さ」だった! |BEST TiMES(ベストタイムズ)

三島 由紀夫 思想

禁断のスクープ映像、その封印が遂に紐解かれた! 稀代の天才作家・三島由紀夫と、血気盛んな東大全共闘の討論会の全貌だ。 時は1969年5月13日。 東大駒場キャンパスの900番教室に、1000人を超える学生たちが集まり、三島を今か今かと待ち受けていた。 旧体制変革のためには暴力も辞さない東大全共闘のメンバーが、この討論会の首謀者だ。 世界各国が政治の季節に突入していたこの頃、日本でも自分たちの手で国を変えようとする学生運動が激化していた。 この年の1月には、安田講堂を占拠していた東大全共闘に対して機動隊が出動、ガレキと火炎瓶で迎え撃った学生たちが、機動隊の催涙弾と放水攻撃の前に敗北するという事件が起きていた。 今の日本では想像もつかないほど、センセーショナルな嵐が吹き荒れていた時代なのだ。 そんな危険きわまりない若者たちが、「三島を論破して立ち往生させ、舞台の上で切腹させる」と盛り上がり、異様なテンションが充満している敵地に、三島は警察が申し出た警護も断り、その身一つで乗り込んで行った。 この頃の三島はノーベル文学賞の候補にもあがった世界的な文豪であると同時に、俳優、映画監督、舞台演出家としても活躍し、その一挙手一投足が常にメディアを賑わせる、まさにカルチャー界のスーパースター的存在だった。 一方で、肉体を鍛え上げ民兵組織〈楯の会〉を率いる天皇主義者としても知られていた。 どこを切っても正反対、ベクトルは真逆の三島と東大全共闘。 この討論会をより面白くより深く楽しむために、4人の識者に当時の時代背景、三島の文学的・政治的・社会的バックボーンとその人間性についての解説が依頼された。 デビュー作「日蝕」で三島由紀夫の再来と称えられた小説家の平野啓一郎、この討論の翌年に東大に入学した神戸女学院大学名誉教授の内田樹、60年代の研究で知られる社会学者の小熊英二、三島にファンレターを出して以来交流のあった作家で僧侶の瀬戸内寂聴という錚々たる顔ぶれだ。 さらに、東大全共闘随一の論客との呼び声高く、三島とドラマティックな舌戦を繰り広げた芥正彦を始めとする元東大全共闘のメンバー3人、三島の護衛のため自主的に900番教室に潜んでいた原昭弘を含む元楯の会一期生3人の生き証人が、今だからこそ話せる〈言葉と行動の裏側と真実〉を語り尽くす。 そこへ、雑誌のカメラマンとして討論会に派遣されていた元新潮社カメラマン・清水寛、最前列で取材していた元TBS記者・小川邦雄の二人の目撃者と、三島と公私共に親しかった「平凡パンチ」の元編集者・椎根和が加わる。 合計13人のインタビュイーが紐解くことによって、三島最大の謎である討論の翌年に決行された自決への想いまでもが炙り出されていく。 また、この討論会を今こそ見るべき理由が明確となっていくのだ。 ナレーターは、三島由紀夫原作の舞台「豊饒の海」で主演を務め、三島文学を愛する東出昌大。 監督は900番教室で実際に学んでいた、東京大学教養学部卒業の豊島圭介。 討論バトルに感銘を受け、自身も元東大全共闘の面々に勇猛果敢に切り込んだ。 まばゆい輝きと圧倒的な熱量を放つ三島の言葉が学生たちを貫き、現代の私たちにも本気で生きる瞬間を体感させる、衝撃のドキュメンタリー。

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三島由紀夫の死因は?三島事件の経緯・背景にある思想を解説!

三島 由紀夫 思想

三島由紀夫は文化人であったということもあり、この切腹自殺には三島由紀夫の思想をあらゆる角度からあらゆる人が諸説を語っている。 スポンサーリンク しかし行動のみでこの事件の目的を語れば 三島由紀夫は「軍隊」の復活を願ったのだ。 三島事件(みしまじけん)とは、1970年(昭和45年)11月25日に、日本の作家・三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした 1970年頃の日本といえば高度経済成長期であり、日本国内でもテクノロジーを中心に様々なものが発展していった。 しかし世間の景色は三島由紀夫の目からは堕落した日本国にしか見えなかった。 軍国主義のような生活や、男らしさのある志が必要と感じていたが、その心は時代の発展とともに薄れ今後さらに堕落していく日本には絶望しかないと懸念していた。 三島はそのような思想、志を持った男が自衛隊隊員のなかにいるものと信じていた。 そこで陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地にて三島由紀夫の思想に賛同した4人若者を従え「盾の会」と称しクーデターを起こした。 しかし三島の想いとは裏腹に同志を求め演説をするも、自衛隊員はヤジばかりを飛ばし、からかい、三島に賛同する自衛隊員はいなかった。 三島由紀夫は失望した。 自衛隊、そして日本への堕落に失望した三島由紀夫に残された道は命を絶つことしかなかった。 スポンサーリンク 三島由紀夫 自殺の瞬間 自衛隊員の態度に失望し室内に戻ってきた三島由紀夫。 介錯を委ねたのはともにクーデターに同行した森田必勝。 森田必勝 「森田、お前は残れ」と三島由紀夫に何度も最後まで言われたが「先生、僕も続きます!」と森田必勝も自決を決意する。 その後、三島由紀夫は短刀を腹に深く刺し込み、右へ向けて腹を切り裂いた。 内臓が飛びだし、事件後の遺体解剖の鑑定官もその驚異的な精神力に驚いていたという。 次の瞬間、森田必勝が三島由紀夫の背後から一太刀を振りかざしす。 しかし、躊躇した森田の介錯は右肩に当たり失敗。 その時、三島由紀夫から「落ち着いてしっかり狙え!」と森田必勝に指示がでた。 三島由紀夫はこの時、痛みで舌を切ろうとしている。 しかし、振りかざした二太刀もうまくはいかず、その時点で前のめりに三島は倒れるも生きていた。 三太刀目でも首と胴体が離れず、森田必勝はその時点でもう1人の隊員、古賀が一太刀で首の皮一枚がつながった状態まで介錯。 その後、短刀で首の皮を裂き胴体と頭部を切り離した。 頭部の離れた三島由紀夫の胴体の横に座り、森田も割腹。 ためらい傷などもあったが、古賀の介錯一太刀で首が切り落とされた。 残された会員たちは涙しながら、三島と森田の胴体と首をきちんと並べ、警察に連行された。 この事件はある意味、三島由紀夫の一人よがりだった事件だったかもしれない。 しかし、三島由紀夫が一連の行動、そして残された書物は現在でも語り継がれることとなった。

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