ポリティカル コネクト。 ポリティカルコレクトネスは日本では言葉狩り?おとぎ話や批判も!

トランプ大統領を生みだしたポリティカル・コレクトネス

ポリティカル コネクト

【動画解説】 最近、日本の鉄道会社JR東日本が社員の制服のリニューアルを発表した。 これにより、女性は男性と同じ制服を着るようになる。 米国から政治的正当性(ポリコレ)が、ゆっくりと日出ずる国を侵食しているのである。 更に、男子生徒が女子生徒と同じように、スカートを穿いても良いとする学校もある。 ポリコレが、米国の文化を完全に破壊したように、日本にもじわじわと侵食し始めているようだ。 テキサス親父のtwitter IDは、 MrTexasDaddy です。 事務局の活動にご共感頂ける方々の御支援を幅広く募集致してお りますので、是非、皆様方の暖かいご協力を宜しくお願いします。 下のリンクよりお願いします。 また、毎月自動的に定額(金額はお選び頂けます)のご支援が頂けます 「定額支援」も御座います。 安定した活動を行う為に、ご協力を宜しくお願いします。 com まで。

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ディズニー、ピクサー映画とポリティカル・コレクトネス

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注:この記事の中にアナ雪との大まかなネタバレと、ディズニー作品全体について触れてます。 ネタバレが嫌な方は気をつけてね 最近、を見たが、予想を裏切らない王道ストーリーでかなり面白かった。 ディズニー映画は脚本は完成しきっており、娯楽映画では負けなしになってしまったなぁとも。 それに加え、ここ最近私の周りでを絶賛する声が物凄く大きい。 映画としての完成度を褒め称える声は大きく、普段映画をそこまで見に行かない人でさえ、3回も見に行ったりしている。 他にもメッセージ性が強いといった声も大きい。 を見たらわかると思うが、これは明らかに差別をテーマにした映画とも言えるだろうし、このメッセージは誰にでも高度な読解力なんて必要なく伝わるものだった。 この ディズニー映画の最近の流れとここ最近使われるようになったと思われる 「ネス」の事についてが今回のテーマだ。 *ネスの説明は後ほど… この脚本の書き方講座はとても分かりやすく、非常に面白いので脚本家とか物語に関わるものだったら見て損がないと思いますのでとてもオススメです。 この脚本講座ではが作成している脚本を具体例とし、どのような構成をとると物語が受けるものになるのかについて説明している。 例えば、「」を想像すると分かりやすいかもしれない。 この脚本講座が実際のシナリオに当てはまるものと分かる一例ですよね。 主人公の弱点そして、そこから引き起こされる主人公の挫折、それを取り戻した時の結果が時代と共に変化してきてるんじゃないかとそしてこの点が「ネス」について語る一種のキッカケになっているのではと思った。 ここで注目したいのは、こういった問題のどれもが 他人から引き起こされるもの、自分が引き起こされる物に関わらず、個人の悩み、問題に過ぎないという点。 ここでの解決は主人公の周りの関係に存在する問題を解決することであるといった点だ。 これらの点が最近の映画やディズニー映画では変わってきているのでは? 次に最近のとのストーリーについて考えてみる。 以下:アナ雪 は知っての通り、ダブル女主人公というディズニーでは特殊な位置にあり、最終的に王子という存在を差し置いて、二人の姉妹愛の素晴らしさという形で終わりを迎える。 ここでアナ雪では1つの作品において2人の解消ポイントを同作品内で別々の所に持ってきている。 1つ目に、アナの獲得した姉妹愛。 これを獲得したのは、誰もが分かるように最後のクライマックスであり、そこに至るまでに主人公であるアナが自立した女性としての成長物語といった風にも描かれている。 2つ目に、エルサの獲得した自由な人生。 これを獲得したのは、おそらく異端な能力を他人に見せたことによって城に引きこもった時点で既にエルサはこの隠遁生活が一種の幸せなものと認識しており、それを「Let it go」という歌で表現している。 つまり、は2人の物語が同時平行しているとともに、2人のかけがえのないものの獲得は別々の所で行われている。 同時に、この2つの獲得は会に存在する問題にも繋がっている。 エルサの物語を見せることで、幸せな結婚生活という通常テンプレートと思われるの生活への問題提起、新たな生き方の提示。 アナの物語を見せることで、人と違うことによる社会での窮屈さ、感情を表したりするのを良しとしない精神的風土の問題点、そして新たな生き方の提示を行なっている。 おそらく、「Let it go」という歌が広まった理由の1つもこういう社会の生きづらさを否定したいという真意を汲みとった歌詞であったということもあるであろう。 アナ雪が提示した 「の問題」そして「 テンプレートな人生の見直し」はこの時代、現代において誰もが注目に値する適したテーマだと思いませんか? の物語は、ジュディというウサギの主人公が初のウサギ警察官となったが、小動物は事件捜査できないという上官の考えから事件の捜査はさしてくれないという挫折があったものの、ニックというキツネの相棒と共に事件の解決を目指す物語である。 これもアナ雪と同様には会に大きく存在する問題の「差別」に繋がっている。 それは、人種差別はもちろんのこと、生活習慣からくる偏見、体格からの偏見など様々であり、暗示的に社会に存在する「差別」の恐怖を描いていると共に、最後には社会における偏見の解消と、主人公の中に存在した隠れた偏見の解消を果たすことで私達はカタルシスを得る。 1回見てくれた人にはわかると思うが、このという作品は「差別」と言われてしまう表現が至る所に溢れている。 少し話しが変わるが、これを描けたことがの大きな達成ポイントと考える。 通常の映画、つまり人間を主役とした映画でこのような表現を書こうとすると生生しく 現実にも存在する表現となるため 、決してディズニー映画ではできない、子供向けとはいえない映画ができたことだろう。 しかし、はこれを 動物による擬人化という発想にすることで、現実にも存在する差別を描く際に、表現がマイルドなものを達成できたという所。 そして、内の差別と人間社会の差別を連結させて想起するのは大人であり、子供達は最高のエンターテイメントとしてのクライム映画作品である所に落とし込んだ事が本当に素晴らしいし、さすがディズニーといったものだ。 この映画の2つに見られる特徴は一言で言うと、 個人の問題 ミクロの問題 と社会の問題 マクロの問題 が関連して物語が描かれるようになってきたという事だ。 この潮流は実際アメリカのヒーロー映画 マーベルのなども単なる勧善懲悪では描かれなくなっている などにも存在するものであり、これが社会からの要望であり、それが映画における潮流となってきていると感じる。 しかしながら、アナ雪や作品内のメッセージと社会問題の関連性は、これらの作品を見た私達にただの娯楽作品以上の感想を抱かざるをえない。 社会の問題を最高級の娯楽作品の中で言及された結果、私達は強いメッセージ性に感化され、現実社会と関連させて言及してしまう。 実際そのようなツイートが多い様に感じるし、ここに私が懸念する点が存在したりする。 *ちなみに、上記においてアナ雪の問題や、などの差別と言った問題に色々と述べていますが、これは私の感想というよりもむしろ、一般的にこういう風に受け取られるだろうという文脈で発言しています。 つまりネスは、差別的な表現はなくしていこうという概念であり、ことを追求することとも言える。 ここで比較例として挙げられるのが、最近話題だった「」 は移民や外国人に対してよく行われる活動であり、憎悪や軽蔑の念を込めて彼らに発言することを指していると言える。 これは基本的に意図的なものに限られ、例えば無意識に差別的な発言を行うこと 例えばゲイの方に対して自分を襲わないでねと発言することなど 、ある意味当然ながらに当たりない。 一方で、ネスは、こういった 意図的でない発言に対しても「ネス的によくない」といった言及がなされる。 実際、アナ雪やに絡められた発言の数々は、物語作品においてネスの概念が取りれられた事への称賛であり、意図的でない発言に対しても言及されるような空気を感じる。 そこに一種の危険性がないのだろうか? ネスといった概念を用いることで、私達は人の行う発言や作品に対して「ネス的に正しくない」といった事や、ディズニーや映画を媒体にして社会問題をネス的に言及を行なってしまう。 これは 一種の空気感をつくり上げることになってしまうのではないのだろうか?もっと極端な話をすると、アナ雪を見た人がエルサの生き様に影響を受けて、逆説的に否定してしまうという皮肉に繋がることになるのでは?こういった空気感は私達の発言が制限されてしまうのに繋がってしまうのではないのだろうか?空気感による制限などは実際に戦前の日本に存在したものであり、空気の流れからの戦争突入した過去を考えると過度な意見潮流を作ることは危険なのではないのだろうか? 私はこのような事を考えずに入られなくなってしまう。 そもそも、ネスという概念もリベラル派の考えに基づいたものに過ぎず、それはネス的に正しいはリベラル派的に正しいというのと同義なのである。 それが悪いと言いたいわけではない。 こちらの記事で言及されているように、もし本当の「平等」、「一切の差別を捨て去る事」とは「モノ」と「ヒト」の間に存在する「違い」さえも捨て去ることである。 それはでいう「無の境地」であり、おそらく私達はそこまで実現したいわけではないんじゃないだろうか? ちなみに平等などの言葉もから生まれた言葉 やはり「ネス」といった言葉も何かしらの軸 リベラル派が紡ぐ言説 を用意しなければ現実に即した言葉として使用することはできないのであろう。 上記もこれの1つ。 「ゲート」という作品は、日本に突如現れたゲートが中世ヨーロッパ的なファンタジー異世界と繋がっており、そこで行われるである主人公の冒険譚である。 その物語において日本人である主人公が村が焼けて住民が全滅した現場から発見されたエルフを対等な存在として扱わない場面がありそれに対して批評が行われている。 これはネスの概念から出てきた批判の1つだろう。 その他の日本のアニメ作品にはネス的な観点からの意見はが多く見受けられる。 特に、男性優位のなどに こういったネス的に不当な事から作品は批判されるべきなのだろうか? 私はこういった観点から物語を批判をするなとは決して言えない。 作品に対する批判も肯定も自由なのだから。 個人的な価値観に沿って考えた場合そういった表現などが、不快感を示す可能性は存在するだろう。 しかしだからといって、「こういった表現は間違っている。 作者にそういった表現をするべきだ」と要求するのは違うのではなかろうか。 物語作品は作者の表現したいことを重視された結果生まれるものであり、その結果、私達が考えるネスが排除されたとしても、それも一種の作品であるに過ぎないだろう。 視点を変えれば多くのネス的に正しくない作品は見つかる。 例えば、ワンピースも女性キャラの造形は男性性至上目線によるものともいえるし、少女マンガにおける男性キャラクターがほとんどイケメンな事などネスを気にすれば物語に対して多くの事を言えてしまう。 他にも、艦これに対しては戦争の道具を萌え化することは不謹慎とも言えるし、には女性を人殺しの道具に乗せて楽しむのはよくないとも言えてしまう。 言おうと思えばネス的観点から間違っているなど何にでも言えてしまうのだ。 ぶっちゃけネスの「ポ」の文字もないようなレイプ作品や、女性を奴隷にした18禁作品もこの日本には溢れるほど存在するけど、それはそれで1つの表現の仕方であり、一部の読者を満足させているという観点からは意味はあるのではないだろうか? *補足 あと、ビジネス的戦略においてもベイマックスの登場によってPC的メッセージを加えたアニメ作品ではアメリカには勝てないことがある意味証明された点もあるので、日本はそういった所で勝負するのではなく、宮﨑駿や、のような作家性で勝負した方がいいのではないかなって思ったりするんですよ。 ネスという観点を用いて作品を創作すること、物語を批評することどちら側においても、一種の足枷になってしまうのではと思わざるをえない。 他者を配慮する余り自由な発言はできなくなってしまう。 スチュワーデスが時代の変化と共にフライトアテントになってきたのもこういった運動の影響の1つであろう。 こういった事は前も言ったが決して悪いことではなく、一種の道具、指標として使う限りは時代に会った変化を起こすものとなるのだろう。 また、 ネス的に正しい、正しくないの間に存在する境界線も確定したものではなく、曖昧なものに過ぎない。 従来の文化や習慣までこういった観点を持ってきてもいいのか?どの程度持ってきてもいいのかは個人的なラインに依存せざるを得なく、一般的に見て行き過ぎた発言などもあり得る。 これを考えるキッカケはディズニー、映画に対する感想だったのですが、少し離れてしまいましたね。 やっぱり、ディズニー、映画の文脈に結びつけてネスを語ること、つまりは自分の主張をディズニー、といった虎の威を借りることで、根拠を強めるのはとても簡単なこと、楽なことかもしれないけど、それが一種の空気感 他所の意見を受け付けない空気感 になってしまってはいけないよねということを言いたかったんです。 アナ雪の例と同様に、こういった空気感が強まると、多様性を重視することがこめられたを見て、に影響を受けて、自分の考え方しか認めないといった意見が発信されてしまうという皮肉な事が起こってしまう。 現在私達が使用して、正しいと信じているネスの文脈も結局は時代の潮流であり、リベラル派を軸にしたものに過ぎない、絶対的なものではない。 本当は、の感想とか、なんでディズニーや作品にはリベラル的メッセージを含んだものが多いのかっていう予想も書きたかったんですか、幅が広がりそうだったので笑 なんだか思考がループしてしまいそうなのでここらへんで。 ディズニーの脚本の素晴らしさと、ネス的意見に対する問題提起の記事でした。

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ディズニー、ピクサー映画とポリティカル・コレクトネス

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ネクストショービジネス。 ほんの少し未来の芸能界はどういったものになるでしょう。 その予測を確かにするひとつは、「ポリティカル・コネクトネス」です。 とかいう話しをしてきました。 案外真面目にアドバイザーもしている喫茶店のマスター、えいすけです。 時の趨勢として、映像やステージでの自虐、差別的な表現はともかく、フリートーク的な状況下ではあらゆる差別が好まれなくなっていくのは確実ですよ、といったようなお話しですね。 日本の場合、ダイバーシティやインクルージョンなどが成熟できているとは思えませんので、対応せざるを得なくなっているポリティカル・コネクトネスには相当な苦労を伴うと予想しています。 もう世界は変わっているので、日本だけ変わらないで済む、ということはありません。 すぐそこにある未来の芸能界、そして、ビジネスシーンで深刻な意味で無能な人、嫌われ者、要らない人にならないよう、社会の変化をまずは知ってください。 どういうこと? と思ったら、お問い合わせを。 お店でお話ししますよ。 ビジネス相談のお問い合わせはメールでお問い合わせの上、ご来店になってお話しください。 ちなみに、ダイバーシティは1960年代、インクルージョン教育自体は私の子供のころにもあったので、1980年代にはあった言葉です。 ポリティカル・コネクトネスもゲーミフィケーションなどと同時期にこのブログで扱っています。 なので、いずれも最新の用語でも最新のシステムに関連している言葉でもありません。 とはいえ、日本では変な感じになってもいるので、本質的な用語の解説を兼ねて、現状を見ていきましょうか。 ダイバーシティ、インクルージョン IT(ICT、IOT)を構成要素に加えることで、働きたい人の総参加と真の効率化が図れる、とされています。 が、そのために日本人が越えなければいけないハードルは数多いです。 用語が入ってきて、半世紀、日本は差別意識について、まったく成熟をしなかったからです。 よほど江戸時代のほうが成熟していた部分が多いのですよ。 それはともかく、 ITを加えることによる革新的経済社会に移行するためには、かなり若い頃から違う価値観、違う生活スタイルの人を認知する教育が必要になります。 家庭内でも差別のない言葉使い(ポリティカル・コネクトネス)を心がけなくてはいけなくなりますね。 つまり、親の世代、その上の世代の理解が乏しいと、若者が新しい社会に対応しずらくなる、という図式が生まれてしまうわけです。 ポリティカル・コネクトネスというのは、政治的、社会的に公正、公平、中立的で、なおかつ差別、偏見が含まれていない言葉や用語。 職業、性別、文化、人種、民族、宗教、ハンディキャップ、年齢、婚姻状況などに基づく差別、偏見を防ぐ目的の表現を指します。 ダイバーシティは、正確にはダイバーシティ・マネジメントと言った方が理解に近い。 上っ面だけの知識人が知っているつもりになっている用語のひとつ。 勘違いしている女性も多いが、女性の社会参加のための用語ではありませんぞ。 個人や集団間にある様々な違い、つまり多様性を競争優位の源泉として活かすための文化や制度、システム、プログラムなど、組織(集団)全体を変革しようとするマネジメントアプローチ。 プログラムやプランではなくプロセスです。 これによって手順が変わるとか、数値目標が掲げられるのではなく、実際の取り組みの中で問題点や解決策が見つけ出されていくわけです。 ダイバーシティは取り入れたからいいでしょ、ってものではなく、継続的、長期的な観点が重視されています。 なぜなら、社会は変化し、常識はすぐに過去のものになるのと同様、ビジネスや活動も知り、動き、考えることで、はじめてあり続けることができるからです。 このためには、あらかじめ変化を許容し内包しておく、という意義もあります。 画一的な価値観でまとまった組織や集団は、数年で下降線を必ずたどります。 インクルージョンは教育や福祉の分野から始まってます。 インテグレーション(統合教育)ではない。 同じ訳にもなるので「包括」という意味をチョイスすると日本語の場合、混乱が避けられますかね。 小学校、中学校で、ハンディキャップ、障がいを持った子どもが大半の時間を通常学級で教育すること、など。 私の卒業した小学校、中学校ではこうした取り組みが見られました。 転じて、高齢者、犯罪前歴者なども含め、教育や社会参加の機会を得られることを目指しています。 e-インクルージョンはITを利用して誰でもどこでも教育や社会参加ができる取り組みになりますが、今はITを構成要素に入れているので言葉を分ける意味が薄れています。 ビジネスではダイバーシティから発展した新しい組織のあり方、として求められました。 1960年代から始まったダイバーシティ・マネジメントでは、多様な人材を採用しても暗黙的差別や排斥、そこまでいかなくても区別が起こってしまいました。 一緒に仕事をして成長していく仲間として受け入れ、機会提供や育成をするインクルージョンがないと、価値観、見た目、動作が違ったりするだけで不当な扱いを受けたり、狭い健常者コミュに入れない(仕事以外での曖昧な絆や友情のようなルールに従えない)だけで、そこにいる価値を見出せなくなるわけです。 現在の学校や企業が抱えている問題でもあり、より根が深いのは、健常者しかいない環境でも差別、階級、排斥などが起こってしまうことです。 その結果、優秀な人材、特異な人材から流出していく、というケースが多発しています。 というわけで、日本ではダイバーシティもインクルージョンもまったく企業、学校、そして社会の成熟に寄与していないわけです。 権利を主張する人のための道具にはなっていますが。 こんな状況で、ポリティカル・コネクトネスはどんどん必要になっていきます。 ダイバーシティもインクルージョンもいわば、内側の努力で克服していくべきことでした。 しかし、ポリティカル・コネクトネスは海外とつながりを持つ以上、外側から入ってくるんです。 その前段階として、私なんかのごくわずかな一派が、見映えをよくしましょうとか、笑顔の練習をしましょう、ってことを地道に教えてきているわけです。 そういうことをやってると、できるようになるし、受け入れられるようになるんですよ。 理屈は語りませんよ。 答えを知ったところでできなければ意味が本当にないからです。 追記みたいな部分のほうが長くなっちゃった。 ごめんよ。 えいすけ.

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