念仏 類語。 馬の耳に念仏の意味とは?馬耳東風との違いや類義語も(例文つき)

馬耳東風とはどんな意味?読み方と類語!馬の耳に念仏とはどう違う?

念仏 類語

いきなりですが最近 京都で飲み会があり「 馬耳東風ってどんな意味だ?」 という話になりました。 というのは、 馬の耳に念仏と同じだという人 又、 人の意見を聞かない人の事をいうんじゃない。 という人 とか いやいや、 元々は聞き耳を馬は立てているから 情報に敏感でありなさいという事だという人 色々です。 ダラダラと話のついで下調べもないので、 結論を出すのにしていました。 飲み会の最中なので、結論は出なかったのですが かえって気になったので、いろいろと調べてみました。 私としては、 人の話を聞かないという事かなと思っていたのですが 色々と新しい発見がありました。 今の3つ挙げた意味が本当なのか、 またほかの意味があったのか 語源は何なのか、 何故 東風なのか 気象に関係が深いのでしょうか。 西じゃダメなんですか!!(笑) アツくなってしまいました・・・。 よろしくお願いします。 まずは 意味からまいりましょう。 いくら説き聞かせても、何の効果ももないたとえ。 になります。 どちらも、 周囲からの忠告の耳を貸さないという意味では 同じといえるでしょう。 しかしながら、馬耳東風は、 受け流すという感じがします。 其処には、風があるのも感じてはいる。 でも馬の耳に念仏は、 何を云っても効果がない。 理解していない。 という意味が含まれています。 少し馬鹿にした表現ともいえます。 世間では、同義語となっていますが、 よく似た表現で類義語かもしれません。 でも少し違うところもあるんですね。 良くわかりました。 では次に、 馬の耳に風という言葉は、どうなのでしょうか。 実はこの言葉が、二つの 馬耳東風と 馬の耳に念仏に深く関わっていることが 解りました。 馬の耳に風 馬の耳に風とは、どういった言葉なのでしょうか。 意味は最初に出たもう一つ誰かが言っていた 元々は 馬の耳に風は、日本発祥のことわざで、 のちの聖徳太子である厩戸の王子が、 春の風が心地よい日に相場に乗って散策していた時に、 愛馬が跨っている主人に何かあってはいけないと 油断なく周囲に気を配りつつ耳をそばだてて歩んでいたと感じ 其処から馬は人間以上により多く情報を収集しているに違いないと思い 情報の重要性を「 馬の耳に風」という事に 残したという事です。 おっとお!! これも正解です! ではなぜ逆の意味の類義語になったのでしょうか。 これは、 遣隋使とか遣唐使がその当時の中国に 馬の耳に風 という諺が日本にはあると伝えたものの 同じ馬の耳に風から派生してできた 馬の耳に念仏 という言葉と李白が書いた詩が 混同されてしまったからになります。 コワいですねぇ。 他にどんな類義語があるか見ていきましょう。 類義語 馬耳東風の類義語としては、 他にも• 豚に真珠(ぶたにしんじゅ)• 対牛弾琴(たいぎゅうだんきん) などがあります。 どちらも、 動物に関係ありますね。 では、どんな時に使えばよいのか 例文を使ってみていきましょう。 使い方 まずは例文を見ていきましょう。 ふみ子は顔を上げ、唇を固くむすんで沈黙をまもりつづけた。 肯定するでもなく否定するでもなく、 まるで 馬耳東風とでもいうふうな無表情である。 鮎川哲也『朱の絶筆』より引用 こちらから何を言っても、 すべて 馬耳東風ですからね。 あんなひと相手では、あなたも気骨が折れることでしょう。 豊島与志雄『山吹の花』より引用 では日常ではいかがでしょうか。• 彼はどんな批判も、 馬耳東風といったように 研究をつづけた。 あいつには、何を言っても 馬耳東風だ。 という風に使います。 いやぁ。 なじみの深い言葉だけに色々解りました。 簡単にまとめていきましょう。 まとめ 今回は、 馬耳東風について調べてきました。 語源は、 李白の詩でしたが もとをたどると 聖徳太子の言葉が、 その大本となっていました。 意味も解りましたが、李白がチョット世間に恨み言 を言っていたことも解りましたね。 類義語も多くありましたね。 良く良く調べてみると、同じ語源でも意味が全く違うようになることも あるんですね。 調べてみて驚きました。 私も、世間の評判にせず、 を顧みずに 自分の道を歩んでいかなければと感じます。 皆様の学びの参考になればありがたいです。 最後までありがとうございました。

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釈迦に説法のことわざの意味は?類語や逆の意味の言葉・使い方も

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釈迦は仏教の開祖のことを意味します。 35歳で悟りを開き、80歳で亡くなるまでに、仏教の教えを説いてまわっていたと伝えられている人物です。 現在の仏教の修行法や、悟りを開くための道筋などを築き上げました。 ちなみに、釈迦の語源は、お釈迦様の出身である部族の名前にあります。 正しくは「釈迦牟尼(しゃかむに)」と言い、牟尼は聖者を意味します。 お釈迦様とは、釈迦族の聖者という意味だったんですね。 長い修業の末に悟りを開き、仏教の開祖となった人物ですから、聖人として扱われるのも納得です。 こちらは、仏教の教えを説いて聞かせることを意味します。 仏教における説法は、物事の道理を、相手の理解力に応じて説明していくことです。 転じて、自分の考えを相手に教えて、言い聞かせることを意味します。 現在では、仏教だけに限られず、どのような意見や教えでもOKという幅広い解釈がされています。 自分の考えを相手に言い聞かせること。 釈迦は仏教の開祖ですね。 すべての教えは、釈迦が修行の末に悟りを開き、会得したものです。 つまり、お釈迦様以上に、仏教のことについて詳しい人物はいないのです。 お釈迦様に説法をすることは、それだけ愚かな行為だということですね。 その道の専門家に、素人が意見する様子を想像してみてください。 だいぶ、いたたまれないですね。 仏教だけに限定されず、どのような分野にも該当することわざです。 仏教から派生した言葉は、「釈迦に説法」だけではありません。 こちらの記事で紹介されている「諸行無常」も、もとは仏教の言葉なので、詳しくチェックしてみてくださいね。 深い意味が隠されていますよ。 お経とは、仏教における聖典のことで、お釈迦様の説法を文字として記録したもののことです。 つまり、お経に書かれていることは、すべてお釈迦様が口にしたものばかりなのです。 口で伝えるか、文字で伝えるかの違いですが、「釈迦に説法」と全く同じ意味の類語となる表現です。 孔子は、紀元前551年~479年に存在した中国の思想家で、儒教の開祖でもある人物です。 弟子との問答を記した「論語」で知られていますね。 仁という人間愛や、道徳についての考えが、短い文章にまとめられています。 「悟道」は、悟りの道や道徳を指していう言葉です。 孔子がよく知っている内容のものとなりますね。 孔子に道徳を説くように、素人が専門家に教えることの愚かさを例えています。 「釈迦に説法」とセットで、一つのことわざとされることもある類語です。 また、「孔子に論語」という言い方がされることもあります。 河童とは、日本の伝説上の生き物のことですね。 頭の皿と、背中の甲羅、手足の水かきが特徴です。 その姿から分かるように、川の中に住むと考えられています。 また、「水練」とは、水泳の練習を意味する言葉です。 水中の生き物である河童に、泳ぎを教えようとすることに関係する言葉なんですね。 河童が泳ぎのプロであるように、その道の専門家に教えることの愚かさを例えている類語です。 これまで紹介した類語のパターンから、意味を察することができますね。 猿といえば、木登り上手であることに間違いないですね。 こちらの場合は、木登りのプロに、木登りを教える様子が関係します。 猿は、生まれたときから木登りのことをよく知っています。 教える必要がない相手に、教えようとする愚かさを例えている類語です。 極楽とは、あらゆる苦しみや災のない、安らかな世界のことを意味します。 仏教において、人が死後に向かう先ですね。 しかし、死んだあとに、誰でも極楽浄土に入ることができるわけではありません。 極楽に行くには、「念仏を実践する」という条件を満たしていなければいけないのです。 逆に考えると、極楽の入り口にいるのは、すでに念仏を実践し、極楽に入る条件を満たしている人たちばかりなのです。 念仏を知り尽くしている人たちに、念仏は必要ありませんね。 よく知っている人に、物を教えようとすることを例えている類語です。 何の役にも立たないことを、しようとしているときにも使われます。 念仏は、極楽浄土に行くための有り難いものですが、馬がそのようなことを理解するはずがありません。 いくら目の前で唱えようとも、相手が馬では全くの無意味です。 転じて、いくら人が意見しても、聞く耳を持たないことを意味します。 どんなに忠告しても、全く効き目がないことを例えていう言葉ですね。 「釈迦に説法」では、相手が立派すぎるため、意見する方が愚か者として扱われます。 また、意見する方が提供する説法なども、価値のない拙いものであると解釈されます。 「馬の耳に念仏」では、相手を愚か者として扱い、意見する方が立派な立場であるように扱います。 また、意見する方が提供するものも価値あるものとして捉えられます。 確かに、逆の意味となる言葉ですね。 真珠は価値ある宝石ですが、豚には、その価値は分かりません。 つまり、価値の分からない者に、良いものを与えても何の役にも立たないことを意味します。 ちなみに、語源は新約聖書の一節にある言葉です。 「豚に真珠を投げてはならない」という言葉に続き、「彼らはそれを踏みつけ咬みついてくるだろう」と記されています。 聖書はキリスト教のものなので、宗教的にみても、「釈迦に説法」の逆といえる言葉ですね。 小判は、昔のお金で、大変価値があるものです。 日本銀行の資料によると、小判1枚は、13万円くらいの価値があるとされています。 1枚だけでも、粗末にできませんね。 しかし、猫にとっては、そんな価値も関係のないものです。 「豚に真珠」と同じように、価値の分からないものに、良いものを与えても無駄であることを例えている言葉です。 猫にとっては、かつお節の方が、よほど嬉しいのかもしれませんね。 祭文とは、祭りのときに神さまに捧げる祝詞(のりと)のことです。 災いを除き、幸せをもたらすために使われる、有り難いものです。 兎も、馬や豚、猫と同じように、有り難いものを理解できない動物として扱われています。 兎に神さまのことを説いても無駄なように、いくら意見しても、なんの効果もないことを意味する言葉です。 「弾ず」とは、楽器を弾いてはいけないという意味ですね。 琴の名人が、牛に対して弾いて名曲を聞かせたという、中国の故事に基づいた言葉です。 とても立派な演奏でしたが、牛は何の興味も示さず、ただ草を食べているばかりでした。 牛を志の低い人や愚かな人に例えて、そのような者に、高尚なものを与えても意味がないことを意味します。 立派な話を説いても、愚か者に通じることはないという意味も持ちます。 相手の実力や経歴を知らず、いろいろと教えている場合に使えます。 例えば、「彼女にテニスを教えるなんて釈迦に説法だよ。 高校時代にインターハイに出たほどの実力なんだから」のような使い方が考えられますね。 指摘するのは心苦しいかもしれませんが、いずれ判明する事実であれば、早めの忠告をしてあげた方が良いでしょう。 とくに、傍目から見ても、あまり実力がない人が教えようとしているときに用います。 仕事をするうえでは、特定の物事について、遥かに詳しい相手に何かを教えなければいけない場面もあることでしょう。 また、自分がその分野に詳しくても「皆さんにお教えするのは、釈迦に説法となりますが~」のような使い方で、「自分はたいしたことはない」と謙遜することも可能です。 こちらも、相手を立てることにつながりますね。 もちろん、ビジネス以外の場面で使ってもOKです。 例えば、「釈迦に説法は、やめておいた方が良いですよ」のような使い方は、ともすると「あなたは素人なんだから、人に教えるなんて愚かなことはやめておいた方が良いですよ」のような意味になりかねません。 「釈迦に説法」は、「よく知っている専門家」と「専門家には及ばない人」の二対で成り立っている表現だからです。 使い方に注意しなければ、知らないうちに「あなたは物をよく知らないほうの人だ」と決めつけてしまうことになります。 皮肉としての使い方にならないよう気をつけてくださいね。 人間関係を円滑に進めるためには、知らずしらずのうちに、相手を傷つけるような言い方をしないように注意しておく必要があります。 うっかり使って皮肉となってしまう言葉を、押さえておきたいですね。 こちらの記事の「ご愁傷様」も、使い方に気をつけておきたい言葉です。

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「馬耳東風(ばじとうふう)」の意味とは?馬の耳に念仏の違いも解説

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まず第一に、依って立つ経典の違いが挙げられる。 題目が依経とするのは前述の通り『法華経』である。 それに対し念仏は浄土三部経と呼ばれる『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』を依経としている。 中国で膨大な経典を整理した天台大師は、釈迦が説いた仏教を五つに分け、最高の経典を法華経とした。 法華経の序分として説かれた『無量義経』には、「種々に法を説くこと方便力を以てす。 四十余年には未だ真実を顕さず」(人々の理解力が未熟であったので、方便によって経を説いてきた。 これまでの四十数年にはまだ真実を説いていない)とあり、次に説く法華経こそが真実経であると明言している。 念仏が依経としてる浄土三部経は、未顕真実の経であり、法華経に導くための方便。 すなわち、真に人を救うのは法華経であり、現在の末法の世では題目を唱えることで幸福に導かれるのである。 第二に、仏の違いがある。 釈迦如来が実在したインドのシッダールタ太子が悟りを開いた仏であるのに対し、阿弥陀如来は経典の中に現れる仏である。 法華経の化城喩品という章の中に、大通智勝仏の十六人の王子の一人として阿弥陀の名が登場する。 そして西方世界で法華経を説いているとされ、我々がいる娑婆世界では釈迦如来が法を説くと記されている。 日蓮聖人はこの部分から「阿弥陀仏等の十六の仏は、昔大通智勝仏の御時、十六の王子として法華経を習うて後に正覚(悟り)をとらせ給へりと見えたり。 阿弥陀仏等も凡夫にておはしませし時は、妙法蓮華経の五字を習ひてこそ、仏にはならせ給ひてはべれ。 まったく南無阿弥陀仏と申して正覚をとらせ給ひたりとは見えず」(『題目弥陀名号勝劣事』)と述べている。 第三に教えの違いとして、題目が唱えることによって現在の世界の即身成仏をめざすのに対し、念仏は唱えて西方十万億土の彼方にある阿弥陀仏の極楽に生まれようとする。 浄土宗の開祖である法然は、自力で救いを求めることはできないとして、浄土三部経以外の経典は「捨てよ、閉じよ、閣けよ、抛てよ」と言って排斥した。 しかし、阿弥陀仏の本願を説く教えの中に、正法を誹謗する者は救済の対象から除くというものがある。 その正法とは法華経であり、それを排斥することは自ら阿弥陀仏を否定することに他ならない。 また、この世界で仏になった釈迦如来の教えを捨てて、はるか彼方の縁もゆかりもない阿弥陀仏に救いを求めるのは、自分の親を捨てて他人の親を慕うようなものである。 さらに自ら幸福を求めようとする題目と、他力によって良い所に生まれ変わろうとする念仏とでは、現在を前向きに暮らしていこうとする気持ちの入り方が違う。 以上、三点にわたって題目と念仏の違いを論述した。 どちらが衆生救済という仏の教えに沿い、私たちの生きる力になるかはお分かりいただけたと思う。

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