しゅう けい きょう ふ しょう。 三国志人物伝【一覧】

【漢方解説】苓桂朮甘湯(りょうけいじゅつかんとう)|漢方セラピー|クラシエ

しゅう けい きょう ふ しょう

郡治所 陰陵県 ( いんりょうけん ) 特記事項• 当塗県 ( とうとけん )には 馬丘聚 ( ばきゅうしゅう )があります。 徐鳳 ( じょほう )はここで反旗を 翻 ( ひるがえ )しました。 下蔡県 ( かさいけん )はもとは 沛国 ( はいこく )に属していました。 平阿県 ( へいあけん )には 塗山 ( とざん )があります。 もとは 沛国 ( はいこく )に属していました。 義成県 ( ぎせいけん )はもとは 沛国 ( はいこく )に属していました。 洛陽 ( らくよう )( 雒陽 ( らくよう ))の東2,160里に位置します。 郡治所 宛陵県 (、 蕪湖県 ( ぶこけん )、、 蕪湖県 ( ぶこけん )、 えんりょうけん ) 特記事項• 蕪湖県 ( ぶこけん )の西には 中江 ( ちゅうこう )があります。 秣陵県 ( まつりょうけん )の南には 牛渚 ( ぎゅうと )があります。 廬江郡(ろこうぐん) 廬江郡 ( ろこうぐん )は 文帝 ( ぶんてい )が 淮南郡 ( わいなんぐん )を分割して置いたのが始まりで、 建武 ( けんぶ )13年(208年)に 六安国 ( りくあんこく )を廃して 淮南郡 ( わいなんぐん )に統合しました。 洛陽 ( らくよう )( 雒陽 ( らくよう ))の東1,700里に位置します。 郡治所 舒県 ( じょけん ) 特記事項• 舒県 ( じょけん )には 桐郷 ( とうきょう )があります。 尋陽県 ( じんようけん )の南には 九江 ( だいこう )があり、東に向かって合流して 大江 ( だいこう )となります。 晥県 ( かんけん )は鉄を産出します。 安豊県 ( あんほうけん )には 大別山 ( たいべつざん )があります。 会稽郡(かいけいぐん) 会稽郡 ( かいけいぐん )の場所 会稽郡 ( かいけいぐん )は 秦 ( しん )が置いたのが始まりで、もとの治所は 呉県 ( ごけん )にありましたが、 呉郡 ( ごぐん )を設置した際に 山陰県 ( さんいんけん )に移されました。 洛陽 ( らくよう )( 雒陽 ( らくよう ))の東3,800里に位置します。 郡治所 山陰県 ( さんいんけん ) 特記事項• 山陰県 ( さんいんけん )の南には 会稽山 ( かいけいざん )があり、山頂には 禹 ( う )の 塚 ( つか )があります。 浙江 ( せつこう )があります。 章安県 ( しょうあんけん )はもとの 冶 ( や )で、 閩越 ( びんえつ )族の土地です。 光武帝 ( こうぶてい )が改名しました。 永寧県 ( えいねいけん )は、 永和 ( えいわ )3年(138年)に 章安県 ( しょうあんけん )の 東甌郷 ( とうおうきょう )が県とされました。 呉郡(ごぐん) 呉郡 ( ごぐん )の場所 呉郡 ( ごぐん )は 順帝 ( じゅんてい )が 会稽郡 ( かいけいぐん )を分割して置いたのが始まりで、 洛陽 ( らくよう )( 雒陽 ( らくよう ))の東3,200里に位置します。 郡治所 呉県 ( ごけん ) 特記事項• 呉県 ( ごけん )の西には 震澤 ( しんたく )( 後 ( のち )の 具蹬澤 ( ぐとうたく ))があります。 もとは国でした。 毗陵県 ( ひりょうけん )の北には 北江 ( ほくこう )があります。 季札 ( きさつ )が住んでいたところです。 郡治所 南昌県 ( なんしょうけん ) 特記事項• 贛県 ( こうけん )には 豫章水 ( よしょうすい )( 予章水 ( よしょうすい ))があります。 南野県 ( なんやけん )には 台領山 ( だいりょうざん )があります。 鄱陽県 ( はようけん )には 鄱水 ( はすい )と 黄金采 ( おうごんさい )があります。 歴陵県 ( れきりょうけん )には 傅惋山 ( ふえんざん )があります。 彭澤県 ( ほうたくけん )の西には 彭蠡澤 ( ほうれいたく )があります。 平都侯国 ( へいとこうこく )はもとの 安平 ( あんぺい )です。 臨汝県 ( りんじょけん )は 永元 ( えいげん )8年(96年)に置かれました。 建昌県 ( けんしょうけん )は 永元 ( えいげん )16年(104年)に 海昬県 ( かいびんけん )を分割して置かれました。 スポンサーリンク 関連記事• スポンサーリンク.

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記事No.27 精神疾患とは ~身体醜形(しゅうけい)障害/醜形恐怖症(BDD)~

しゅう けい きょう ふ しょう

脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)は、神経圧迫によって腰の痛みやしびれなどがおこる病気です。 それでは、脊柱管狭窄症について詳しくご説明します。 骨にはいろいろな名前がついていますが、脊椎(せきつい)は背骨のことです。 脊椎は、椎骨(ついこつ)と言われる骨が積み重なって体を支えています。 椎骨は2つの骨(椎体(ついたい)&椎弓(ついきゅう)から成り立っていて、椎骨(ついこつ)と椎骨の間には、空間があります。 この空間のことを、椎孔(ついこう)といいます。 椎孔が重なると管になりますが、これが 脊柱管(せきちゅうかん)です。 脊柱管には、たくさんの神経が入っている袋「硬膜(こうまく)」があり背骨の上から下までの神経を脊柱管が守っている仕組みになっています。 だからこそ、人は元気で動きまわれるのです。 しかし、脊柱管狭窄症になると、脊柱管のまわりの骨が何らかの原因で、変形してしまったりとか、厚くなったりすることで脊柱管が少し狭くなります。 結果的に、そのまわりにある神経(または血管)を圧迫するのです。 脊柱管狭窄症は、そんな神経圧迫のために、腰痛や足のしびれがおこる病気になります。 脊柱管狭窄症になりやすいのは50代から80代? 脊柱管狭窄症は、50代~80代の年齢が高い患者様が多いことが特徴です。 しかし、脊柱管狭窄症は、まだ世間であまり知られていませんよね。 そのため、「腰が痛くても年齢のせいだからしょうがない!」と思って病院を受診しない方が多いことが問題になっています。 大手会社の調査では、脊柱管狭窄症の患者様は、約240万人いる(病院へ行かない患者様も含めて)と指摘されています。 ナント!70代になると12人に1人ぐらい、脊柱管狭窄症だと考えられています。 また、脊柱管狭窄症患者の中には、高血圧や糖尿病の方が多いことも指摘されています。 脊柱管狭窄症ではなくても、腰周辺のどこかに腫瘍ができていて、まわりの神経が圧迫されていることで腰が痛むこともあります。 腰痛を軽く考えることはよくありません。 脊柱管狭窄症は、正しい知識を身につけることが大切です。 腰の調子がイマイチの方は、まずはこのサイトの中からご自身の症状を探してください。 脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)について記事一覧.

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【しょう】と読む漢字一覧表

しゅう けい きょう ふ しょう

4代にわたって 三公 ( さんこう )を輩出した名門・ 汝南 ( じょなん ) 袁氏 ( えんし )の出身で、 袁紹 ( えんしょう )の 従弟 ( いとこ )。 董卓 ( とうたく )が権力を握ると、 南陽郡 ( なんようぐん )で挙兵して反 董卓 ( とうたく )連合に参加するが、やがて 袁紹 ( えんしょう )と対立する。 その後 揚州 ( ようしゅう )に勢力を拡大した 袁術 ( えんじゅつ )は、天子を 僭称 ( せんしょう )して国号を「 仲 ( ちゅう )」と 定 ( さだ )めるも、諸侯の反発を受け、 孫策 ( そんさく )が離反。 曹操 ( そうそう )に敗北した 袁術 ( えんじゅつ )は 袁紹 ( えんしょう )の元に身を寄せようとするが、その途中に発病して亡くなった。 董卓 ( とうたく )配下の 都尉 ( とい )。 董卓 ( とうたく )が朝廷で権力を握ると反 董卓 ( とうたく )連合が決起。 胡軫 ( こしん )に従って 陽人聚 ( ようじんしゅう )に侵出した 孫堅 ( そんけん )を迎撃に出るが、 胡軫 ( こしん )を嫌った 呂布 ( りょふ )が偽情報を流したため 胡軫 こしん軍は敗北。 混乱の中で 華雄 ( かゆう )は斬られ、 獄門 ( ごくもん )(さらし首)にかけられた。 『三国志演義』では、 鮑忠 ( ほうちゅう )、 祖茂 ( そも )、 兪渉 ( ゆしょう )、 潘鳳 ( はんほう )を次々に討ち取る活躍を見せるが、その後 関羽 ( かんう )に瞬殺され、 関羽 ( かんう )の強さを強調する役目を 担 ( にな )う。 解県 ( かいけん )で暴利を貪る塩商人を殺して 幽州 ( ゆうしゅう )に逃げてきたところで 劉備 ( りゅうび )・ 張飛 ( ちょうひ )と出会い、 劉備 ( りゅうび )に仕えて挙兵した。 曹操 ( そうそう )に捕らえられた際は、厚遇されても 劉備 ( りゅうび )への忠誠を忘れず、 曹操 ( そうそう )の敵であった 袁紹 ( えんしょう )配下の猛将、 顔良 ( がんりょう )を討って恩を返してから 曹操 ( そうそう )のもとを去った。 劉備 ( りゅうび )が蜀の地を得ると 荊州 ( けいしゅう )を任されるが、傲慢で敵をあなどる性格が災いし、魏を攻めている最中、呉に背後を突かれて敗死した。 朝廷の実権を握った 董卓 ( とうたく )により 冀州牧 ( きしゅうぼく )に任命されるが、その後反 董卓 ( とうたく )連合に参加する。 董卓 ( とうたく )が即位させた 献帝 ( けんてい )を認めず、 袁紹 ( えんしょう )と共に 幽州牧 ( ゆうしゅうぼく )・ 劉虞 ( りゅうぐ )を天子に 擁立 ( ようりつ )しようとしたが、 劉虞 ( りゅうぐ )本人の反対により失敗した。 公孫瓚 ( こうそんさん )が 冀州 ( きしゅう )にに侵攻すると、保身のために 袁紹 ( えんしょう )に 冀州 ( きしゅう )を 譲 ( ゆず )るが、すべての権力を 剥奪 ( はくだつ )されてしまう。 その後、 陳留太守 ( ちんりゅうたいしゅ )・ 張邈 ( ちょうばく )の元に身を寄せるが、 袁紹 ( えんしょう )に命を狙われていると思い込み、自害してしまった。 諱 ( いみな )は 劉協 ( りゅうきょう )。 霊帝 ( れいてい )の次子で 少帝 ( しょうてい )の 異母弟 ( いぼてい )にあたる。 母の 王美人 ( おうびじん )は、 劉協 ( りゅうきょう )を生むと 何皇后 ( かこうごう )の嫉妬により毒殺された。 霊帝 ( れいてい )の死後、朝廷で権力を握った 董卓 ( とうたく )に 擁立 ( ようりつ )されて天子に即位する。 その後、 董卓 ( とうたく )は 長安 ( ちょうあん )への 遷都 ( せんと )を強行し、 長安 ( ちょうあん )を脱出した 献帝 ( けんてい )は、 曹操 ( そうそう )に保護されて都を 豫州 ( よしゅう )・ 潁川郡 ( えいせんぐん )・ 許県 ( きょけん )に移した。 220年、 曹操 ( そうそう )の跡を継いだ 曹丕 ( そうひ )に帝位を 禅譲 ( ぜんじょう )し、400年に渡る漢王朝はその幕を閉じた。 皇甫規 ( こうほき )・ 威明 ( いめい ) 涼州 ( りょうしゅう )・ 安定郡 ( あんていぐん )・ 朝那県 ( ちょうなけん )の人。 祖父は 度遼将軍 ( とりょうしょうぐん )、父は 扶風都尉 ( ふふうとい )を務めた名門の出身で、自身も異民族との戦いで数々の功績をあげた。 宦官 ( かんがん )と対立し、 党錮 ( とうこ )の禁の際には 自 ( みずか )ら 党人 ( とうじん )であると名乗り出たが、 罷免 ( ひめん )されることはなくそのまま 用 ( もち )いられる。 皇甫規 ( こうほき )が亡くなると、若く美しい 皇甫規 ( こうほき )の妻を 妾 ( めかけ )にしようと 董卓 ( とうたく )が 迫 ( せま )ったが、 毅然 ( きぜん )として断ったため殴り殺された。 胡広 ( ここう )・ 伯始 ( はくし ) 荊州 ( けいしゅう )・ 南郡 ( なんぐん )・ 華容国 ( かようこく )の人。 外戚 ( がいせき )・ 梁冀 ( りょうき )の専横を止めず、 中常侍 ( ちゅうじょうじ )の 丁粛 ( ていしゅく )と婚姻関係を結ぶなど、 外戚 ( がいせき )や 宦官 ( かんがん )と共存する 老獪 ( ろうかい )な生き方を貫き、 安帝 ( あんてい )、 順帝 ( じゅんてい )、 沖帝 ( ちゅうてい )、 質帝 ( しつてい )、 桓帝 ( かんてい )、 霊帝 ( れいてい )の6代に仕えて重職を担った。 また、 漢 ( かん )の制度をまとめた 『 漢制度 ( かんせいど )』を遺し、 蔡邕 ( さいよう )に大きな影響を与えた。 さ 父の 周異 ( しゅうい )は 洛陽令 ( らくようれい )、父の 従兄弟 ( いとこ )・ 周景 ( しゅうけい )とその子・ 周忠 ( しゅうちゅう )は共に 太尉 ( たいい )を 務 ( つと )めた名門の出身。 孫堅 ( そんけん )が反 董卓 ( とうたく )連合に参加した際、 舒県 ( じょけん )に移住してきた 孫策 ( そんさく )と親交を結んだ。 孫策 ( そんさく )・ 孫権 ( そんけん )の2代に仕え、 曹操 ( そうそう )の南下に際しては 魯粛 ( ろしゅく )と共に徹底交戦を主張して「赤壁の戦い」を勝利に導く。 孫権 ( そんけん )に 益州 ( えきしゅう )を得て 曹操 ( そうそう )と対抗することを進言し、出陣の準備に向かう途上、 病 ( やまい )により36歳の若さで 亡 ( な )くなった。 朱穆 ( しゅぼく )・ 公叔 ( こうしゅく ) 荊州 ( けいしゅう )・ 南陽郡 ( なんようぐん )・ 宛県 ( えんけん )の人。 朱暉 ( しゅき )の孫。 大将軍 ( だいしょうぐん )・ 梁冀 ( りょうき )の 故吏 ( こり )で、たびたび 梁冀 ( りょうき )の横暴を 諫 ( いさ )めた。 冀州刺史 ( きしゅうしし )に就任すると 宦官 ( かんがん )の不正を厳しく取り締まったが、その 苛烈 ( かれつ )さが 桓帝 ( かんてい )の怒りに触れて 罷免 ( ひめん )される。 その後 尚書令 ( しょうしょれい )に任命されたが、 宦官 ( かんがん )に対する厳しさは変わらなかった。 死後、 蔡邕 ( さいよう )によって「 文忠 ( ぶんちゅう )先生」と 諡 ( おくりな )される。 幼い頃に父を 亡 ( な )くすと 従父 ( おじ )の 諸葛玄 ( しょかつげん )と共に 劉表 ( りゅうひょう )を頼って 荊州 ( けいしゅう )に移住し、 崔州平 ( さいしゅうへい )や 徐庶 ( じょしょ )らと親交を持って農耕生活を送っていた。 「 三顧 ( さんこ )の礼」をもって 劉備 ( りゅうび )の 軍師 ( ぐんし )に 迎 ( むか )えられると、 蜀漢 ( しょくかん )の建国に多大な貢献をする。 劉備 ( りゅうび )が 崩御 ( ほうぎょ )すると 丞相 ( じょうしょう )として 劉禅 ( りゅうぜん )をよく補佐し、 国是 ( こくぜ )である北伐を行うが、5度目の出陣中に 病 ( やまい )に倒れて陣中で 没 ( ぼっ )した。 曹嵩 ( そうすう )・ 巨高 ( きょこう ) 豫州 ( よしゅう )・ 沛国 ( はいこく )・ 譙県 ( しょうけん )の人。 曹操 ( そうそう )の父。 宦官 ( かんがん )・ 曹騰 ( そうとう )の養子となって 司隷校尉 ( しれいこうい )、 大鴻臚 ( だいこうろ )、 大司農 ( だいしのう )を歴任し、実に1億銭を 霊帝 ( れいてい )に献上して 太尉 ( たいい )に就任する。 晩年は戦乱を 避 ( さ )けて 徐州 ( じょしゅう )・ 琅邪国 ( ろうやこく )に避難していたが、 兗州 ( えんしゅう )に地盤を得た 曹操 ( そうそう )の元に向かう途中、 陶謙 ( とうけん )の兵に襲われて殺害された。 曹節 ( そうせつ )・ 漢豊 ( かんほう ) 荊州 ( けいしゅう )・ 南陽郡 ( なんようぐん )・ 新野県 ( しんやけん )の人。 宦官 ( かんがん )。 順帝 ( じゅんてい )の時に 西園騎 ( せいえんき )から 小黄門 ( しょうこうもん )となり、 桓帝 ( かんてい )が崩御すると 中黄門 ( ちゅうこうもん )、 虎賁 ( こほん )、 羽林 ( うりん )1,000人を 率 ( ひき )いて 劉宏 ( りゅうこう )( 霊帝 ( れいてい ))を迎える。 竇武 ( とうぶ )・ 陳蕃 ( ちんはん )らの 宦官 ( かんがん )一掃計画を察知すると逆に彼らを 誅殺 ( ちゅうさつ )し、政治の実権を握って権勢を 誇 ( ほこ )った。 孫夏 ( そんか ) 荊州 ( けいしゅう )・ 南陽郡 ( なんようぐん )で蜂起した黄巾賊・ 張曼成 ( ちょうまんせい )の将。 『 三国志演義 ( さんごくしえんぎ )』では 孫仲 ( そんちゅう )として登場する。 張曼成 ( ちょうまんせい )、 趙弘 ( ちょうこう )の後を 継 ( つ )いだ 韓忠 ( かんちゅう )は城を捨てて撤退。 朱儁 ( しゅしゅん )の攻撃を受けて降伏するが、 南陽太守 ( なんようたいしゅ )・ 秦頡 ( しんけつ )が降伏した 韓忠 ( かんちゅう )を殺害したため、 孫夏 ( そんか )は兵をまとめて再度 宛県城 ( えんけんじょう )に 籠 ( こ )もった。 その後、 孫堅 ( そんけん )の攻撃に耐えきれず城を捨てて逃亡するが、 荊州 ( けいしゅう )・ 南陽郡 ( なんようぐん )・ 西鄂県 ( せいがくけん )の 精山 ( せいざん )で討ち取られる。 17歳の時に 銭唐県 ( せんとうけん )で海賊退治をしたことで名を挙げ、その後は 会稽郡 ( かいけいぐん )で起こった 許昌 ( きょしょう )の乱をはじめとする各地の反乱の鎮圧で活躍した。 また、 袁紹 ( えんしょう )を盟主とする反 董卓 ( とうたく )連合に応じて挙兵し、 袁術 ( えんじゅつ )の下で積極的に戦って 華雄 ( かゆう )を討ち取った。 袁紹 ( えんしょう )と 袁術 ( えんじゅつ )の対立が深まると、 袁術 ( えんじゅつ )の命によって 袁紹 ( えんしょう )派の 劉表 ( りゅうひょう )を攻めるが、 黄祖 ( こうそ )の部下が放った矢によって命を落とした。 檀石槐 ( たんせきかい ) 鮮卑 ( せんぴ )族の 大人 ( たいじん )。 父・ 投鹿侯 ( とうろくこう )が3年間 南匈奴 ( みなみきょうど )に従軍している間に生まれる。 不義の子として殺されかけるが、母の「口に入った 雹 ( ひょう )を飲み込んだところ 身籠 ( みご )もったので、きっと非凡な人物になるでしょう」という助命嘆願によって、母は離縁され 檀石槐 ( たんせきかい )の命は助けられた。 その後、勇健で知略に富んだ 檀石槐 ( たんせきかい )は部族内で 推 ( お )されて 大人 ( たいじん )となる。 初めて 鮮卑 ( せんぴ )族を統一し、 扶余 ( ふよ )・ 丁零 ( ていれい )・ 烏孫 ( うそん )を 討 ( う )って内外モンゴル一帯を支配すると、たびたび 後漢 ( ごかん )領内に侵入・略奪をくり返し、討伐軍を 退 ( しりぞ )けた。 ち 种暠 ( ちゅうこう )・ 景伯 ( けいはく ) 司隷 ( しれい )・ 河南尹 ( かなんいん )・ 洛陽県 ( らくようけん )の人。 益州刺史 ( えきしゅうしし )を務めていた時、 蜀郡太守 ( しょくぐんたいしゅ )が 曹騰 ( そうとう )に私的に送った書簡を手に入れ 蜀郡太守 ( しょくぐんたいしゅ )と 曹騰 ( そうとう )を 弾劾 ( だんがい )したが、逆に 曹騰 ( そうとう )はこの行為を 褒 ( ほ )め 称 ( たた )え、その後も 种暠 ( ちゅうこう )を厚く遇した。 後 ( のち )に 司徒 ( しと )となった 种暠 ( ちゅうこう )は「今の自分があるのは 曹常侍 ( そうじょうじ )( 曹騰 ( そうとう ))のお陰だ」と語った。 はじめ 公孫瓚 ( こうそんさん )に仕えたが、 後 ( のち )に 劉備 ( りゅうび )に仕える。 長坂 ( ちょうはん )の戦いでは、 曹操 ( そうそう )軍の激しい追撃の中 劉備 ( りゅうび )の妻子を守りきった。 また、 定軍山 ( ていぐんざん )の戦いではみごとな 空城 ( くうじょう )の計によって敵を退却させ、 劉備 ( りゅうび )に「 子龍 ( しりょう )は一身すべてこれ肝なり」と 称賛 ( しょうさん )される。 劉備 ( りゅうび ) 亡 ( な )き後も冷静な判断と実直な人柄で 劉禅 ( りゅうぜん )を支え、死後に 順平侯 ( じゅんぺいこう )の 諡号 ( しごう )を贈られた。 劉備 ( りゅうび )の挙兵以来、 関羽 ( かんう )と共に兄弟のように仕えた 万夫不当 ( ばんぷふとう )の豪傑。 長坂 ( ちょうはん )の戦いでは、 曹操 ( そうそう )軍から逃げる 劉備 ( りゅうび )を守るために 殿軍 ( しんがり )を 務 ( つと )め、一喝して 曹操 ( そうそう )軍を退けるなど、その勇名は敵味方に 轟 ( とどろ )いていた。 目上の者は 敬 ( うやま )うが、部下に対する苛烈な刑罰を改めることができず、 関羽 ( かんう )の 弔 ( とむら )い合戦の前に恨みを抱いていた部下の 范彊 ( はんきょう )・ 張達 ( ちょうたつ )に殺害された。 『三国志演義』での 字 ( あざな )は 翼徳 ( よくとく )。 太平道 ( たいへいどう )の開祖・ 張角 ( ちょうかく )の弟。 張梁 ( ちょうりょう )の兄。 張角 ( ちょうかく )が黄巾の乱を起こすと 地公将軍 ( ちこうしょうぐん )と称してこれに従った。 朝廷より討伐軍が派遣されると、病床の 張角 ( ちょうかく )の代わりに指揮をとった。 兄の 張角 ( ちょうかく )が病死し弟の 張梁 ( ちょうりょう )が戦死する中、 冀州 ( きしゅう )・ 鉅鹿郡 ( きょろくぐん )の 下曲陽 ( かきょくよう )に籠城して最後まで抵抗したが、 皇甫嵩 ( こうほすう )率いる討伐軍に敗れて討たれた。 『三国志演義』では妖術を使って官軍を苦しめた。 陳温 ( ちんおん )・ 元悌 ( げんてい ) 豫州 ( よしゅう )・ 汝南郡 ( じょなんぐん )の人。 初平 ( しょへい )元年(190年)当時の 揚州刺史 ( ようしゅうしし )。 董卓 ( とうたく )が支配する 洛陽 ( らくよう )( 雒陽 ( らくよう ))から逃亡してきた 許靖 ( きょせい )を 匿 ( かくま )った他、 曹洪 ( そうこう )と親しく、 董卓 ( とうたく )に敗れた 曹操 ( そうそう )に 廬江郡 ( ろこうぐん )の精鋭武装兵・2,000人を援助した。 その死については、「 初平 ( しょへい )3年(192年)冬に病死」とする記録と、「 初平 ( しょへい )4年(193年)3月に 袁術 ( えんじゅつ )によって殺害された」とする記録がある。 杜喬 ( ときょう )・ 叔栄 ( しゅくえい ) 司隷 ( しれい )・ 河内郡 ( かだいぐん )・ 林慮県 ( りんりょけん )の人。 順帝 ( じゅんてい )に 泰山太守 ( たいざんたいしゅ )の 李固 ( りこ )を推挙し、 外戚 ( がいせき )・ 梁冀 ( りょうき )と関係のある地方官を次々に 弾劾 ( だんがい )した。 質帝 ( しつてい )が 梁冀 ( りょうき )に毒殺されると 李固 ( りこ )と共に 清河王 ( せいがおう )・ 劉蒜 ( りゅうさん )を 擁立 ( ようりつ )しようとするが、 蠡吾侯 ( れいごこう )・ 劉志 ( りゅうし )(後の 桓帝 ( かんてい ))を 擁立 ( ようりつ )しようとする 梁冀 ( りょうき )に敗れて殺害された。 な 『三国志演義』のみに登場する仙人。 張角 ( ちょうかく )に 『 太平要術 ( たいへいようじゅつ )の 書 ( しょ )』を 授 ( さず )ける。 「これを使って民を助けよ。 ただし、悪しきことに使えば天罰が下る」と忠告するも、 張角 ( ちょうかく )は 『 太平要術 ( たいへいようじゅつ )の 書 ( しょ )』で習得した妖術を頼りに 太平道 ( たいへいどう )を開き、黄巾の乱を引き起こした。 南華老仙 ( なんかろうせん )は、戦国時代の思想家である 荘周 ( そうしゅう )( 荘子 ( そうし ))が仙人になった姿と考えられており、青い目を持つ子供のような顔をした老人として描かれている。 李固 ( りこ )・ 子堅 ( しけん ) 益州 ( えきしゅう )・ 漢中郡 ( かんちゅうぐん )・ 南鄭県 ( なんていけん )の人。 大将軍 ( たいしょうぐん )・ 梁商 ( りょうしょう )に 辟召 ( へきしょう )されるが、 梁商 ( りょうしょう )の子・ 梁冀 ( りょうき )と対立した。 後に 太尉 ( たいい )に昇進する。 質帝 ( しつてい )が 梁冀 ( りょうき )に毒殺されると、 蠡吾侯 ( れいごこう )・ 劉志 ( りゅうし )(後の 桓帝 ( かんてい ))を 擁立 ( ようりつ )しようとする 梁冀 ( りょうき )に対抗して 杜喬 ( ときょう )と共に 清河王 ( せいがおう )・ 劉蒜 ( りゅうさん )を 擁立 ( ようりつ )するが、 冤罪 ( えんざい )によって投獄・殺害された。 前漢の 魯恭王 ( ろきょうおう )であった 劉余 ( りゅうよ )( 景帝 ( けいてい )の第4子)の 末裔 ( まつえい )に当たる。 霊帝 ( れいてい )の時代、政治の腐敗や黄巾の乱の影響によって 刺史 ( しし )や 太守 ( たいしゅ )の支配力が弱体化していることを理由に、軍権と民政権を兼ねた「 州牧 ( しゅうぼく )」の復活を提案し、みずから 益州 ( えきしゅう )の 牧 ( ぼく )となる。 劉璋 ( りゅうしょう )の父。 『三国志演義』では、黄巾の乱の時に 幽州太守 ( ゆうしゅうたいしゅ )として登場するが、正史にその記録はなく、後に 益州 ( えきしゅう )を治めることになる 劉備 ( りゅうび )との因果関係を強める演出である。 劉悝 ( りゅうかい ) 桓帝 ( かんてい )の弟。 勃海王 ( ぼっかいおう )。 165年に反乱を計画した罪で 廮陶王 ( えいとうおう )に格下げされる。 中常侍 ( ちゅうじょうじ )の 王甫 ( おうほ )に 勃海王 ( ぼっかいおう )への復帰工作を依頼していたが、 桓帝 ( かんてい )の 遺詔 ( ゆいしょう )によって復帰が 叶 ( かな )うと( 王甫 ( おうほ )のお陰ではないからと) 王甫 ( おうほ )に礼金を支払わなかった。 これを 恨 ( うら )みに思った 王甫 ( おうほ )は「 劉悝 ( りゅうかい )に帝位 簒奪 ( さんだつ )の 企 ( たくら )みあり」と 誣告 ( ぶこく )し、追い 詰 ( つ )められた 劉悝 ( りゅうかい )は自害に追い込まれる。 東海恭王 ( とうかいきょうおう )・ 劉彊 ( りゅうきょう )[ 後漢 ( ごかん )の初代皇帝・ 光武帝 ( こうぶてい ) ( 劉秀 ( りゅうしゅう ))の長子]の 末裔 ( まつえい )に当たる。 清貧で知られ、 幽州牧 ( ゆうしゅうぼく )に任命されて「 張純 ( ちょうじゅん )の乱」を平定。 反 董卓 ( とうたく )連合が決起すると、 袁紹 ( えんしょう )らに 天子 ( てんし )に 推戴 ( すいたい )されるが、これを拒絶した。 その後、暴走する 公孫瓚 ( こうそんさん )討伐の軍を起こすが、敗れて捕らえられ、帝号を 僭称 ( せんしょう )しようとした罪で処刑された。 前漢の 景帝 ( けいてい )の第4子・ 魯恭王 ( ろきょうおう )・ 劉余 ( りゅうよ )の第6子、 郁桹侯 ( いくろうこう )・ 劉驕 ( りゅうきょう )の子孫。 若い頃から清流派の党人として名声を得る。 孫堅 ( そんけん )によって 荊州刺史 ( けいしゅうしし )・ 王叡 ( おうえい )が殺害されると、その後任に任命される。 また、 劉表 ( りゅうひょう )は学問を 奨励 ( しょうれい )したため、戦乱を逃れた名士や学者の多くが 荊州 ( けいしゅう )に移住した。 河北 ( かほく )を平定した 曹操 ( そうそう )が南下の姿勢を見せると、領土を失った 劉備 ( りゅうび )を受け入れて最前線の 新野県 ( しんやけん )を守らせるが、間もなく亡くなった。 前漢の 景帝 ( けいてい )の第9子、 中山靖王 ( ちゅうざんせいおう )・ 劉勝 ( りゅうしょう )の庶子、 劉貞 ( りゅうてい )の末裔というが、定かではない。 黄巾の乱の時に挙兵。 以来各地を転戦するも確たる地盤を持てずにいたが、 軍師 ( ぐんし )・ 諸葛亮 ( しょかつりょう )を迎えると「天下三分の計」に従って 益州 ( えきしゅう )の地に地盤を築いた。 献帝 ( けんてい )が 曹魏 ( そうぎ )に 禅譲 ( ぜんじょう )すると、皇帝に即位して「 蜀漢 ( しょくかん )」を建国する。 配下の 関羽 ( かんう )の 仇討 ( かたきう )ちに 呉 ( ご )に攻め込むが、 陸遜 ( りくそん )の火計に敗退し、病を患って 白帝城 ( はくていじょう )で 諸葛亮 ( しょかつりょう )に後事を託して没する。 梁冀 ( りょうき )・ 伯卓 ( はくたく ) 涼州 ( りょうしゅう )・ 安定郡 ( あんていぐん )・ 烏枝県 ( うしけん )の人。 後漢 ( ごかん )第8代皇帝・ 順帝 ( じゅんてい )の 皇后 ( こうごう )・ 梁妠 ( りょうどう )の兄。 外戚 ( がいせき )として権力を握り、 順帝 ( じゅんてい )、 冲帝 ( ちゅうてい )、 質帝 ( しつてい )、 桓帝 ( かんてい )の4代に渡って国政を私物化した。 成人した 桓帝 ( かんてい )が 宦官 ( かんがん )・ 単超 ( ぜんちょう )らの助力を得て 梁冀 ( りょうき )の排斥に成功したことから、一層 宦官 ( かんがん )への権力集中が進んだ。 丁原 ( ていげん )に仕えていたが、 董卓 ( とうたく )が 洛陽 ( らくよう )に入ると 丁原 ( ていげん )を殺して 董卓 ( とうたく )に従い、父子の 契 ( ちぎ )りを結ぶ。 「人中に 呂布 ( りょふ )あり、馬中に 赤兎 ( せきと )あり」と賞された万夫不当の豪傑。 その後、 司徒 ( しと )・ 王允 ( おういん )らと結んで 董卓 ( とうたく )を殺害するが、 李傕 ( りかく )・ 郭汜 ( かくし )に敗れて各地を放浪、自分を受け入れてくれた 劉備 ( りゅうび )が治める 徐州 ( じょしゅう )を奪う。 その後 劉備 ( りゅうび )と結んだ 曹操 ( そうそう )に包囲されると配下の裏切りを受けて降伏するが、命 乞 ( ご )いも 空 ( むな )しく 劉備 ( りゅうび )の進言によって処刑された。 鄭玄 ( じょうげん )とともに 馬融 ( ばゆう )に師事して儒学を学び、故郷 幽州 ( ゆうしゅう )・ 涿郡 ( たくぐん )・ 涿県 ( たくけん )で近隣の子弟に学問を教えていた。 門下には 劉備 ( りゅうび )や 公孫瓚 ( こうそんさん )がいる。 黄巾の乱が起こると 北中郎将 ( ほくちゅうろうしょう )に任命されて討伐軍の一翼を担ったが、軍の監察に来た 左豊 ( さほう )に賄賂を求められ、これを断ったために罪を着せられて免官された。 黄巾の乱が終結すると、 皇甫嵩 ( こうほすう )が 冤罪 ( えんざい )を証明したために復職したが、 董卓 ( とうたく )の 献帝 ( けんてい ) 擁立 ( ようりつ )に反対したために再び免官された。 晩年は 袁紹 ( えんしょう )の 軍師 ( ぐんし )となって病死した。

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